喜びの与え方|自分に正直に与える幸せ
与えると与えられます。
ですが、与えることが喜びでなければ、互いに幸せになれません。
自分に素直に正直に、自分の喜びになるような与え方が大切です。
今日は「喜びの与え方|自分に正直に与える幸せ」と題して、喜びの与え方について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
●喜びの与え方|自分に正直に与える幸せ
○喜びの与え方
プロテスタントキリスト教会のクリスチャンです。
献金についてです。最近苦痛です。
夫の収入から夫の許可を得て献金をしています。夫は教会へは行っておらず、夫が家計を管理していますので金銭面で何事も私の自由にはなりません。
大きな病気をしてから働けず自分自身の収入はありません。
でも、いちいち教会の中でそんなことは言えません。傍目には不自由のない専業主婦の奥様に見えると思います。
月定献金や毎週の礼拝時の席上献金以外にもクリスマスやイースター等の行事のときや、他にも建築や寄附等のための○○献金の機会が多くあります。何かの集会があるときにも献金袋が回ってきます。
機会が多すぎて正直言って苦痛ですしできません。
きちんとした会計報告書が毎月配られ、とても健全な教会だとは思いますが、報告書には献金者の氏名も記載されます。
月定だけではなくいくつかの○○献金の献金者の氏名もです。
献金についての過去のこちらでの質問にもいくつか目を通しました。
多くなくても各々自分が示された額を感謝をもって神様のために、ということは分かっているのですが、最近人の目ばかりが気になってしんどくなってきました。悪魔が働いているのかも知れませんが。
どこの教会でもありそうですが、献金についてあれこれ言う人もいます。回ってきた献金袋をスルーしてしまうとそのうちに噂になります。
旅行や趣味を楽しんでいる人がいると「そんなお金があるのなら」という声も聞こえてきたり。
健全な宗教をカルト化させるのは一部の心ない信徒なのでしょうか。裁いている人を裁きたくなります。
教会も高齢化で信徒の数も年々少なくなり、ご奉仕の負担も増えましたが、献金のプレッシャーも大きいです。
会計担当を身近だった方々がされるようになってきましたので献金額を知られてしまうこともしんどいです。
多く献金できないとこれからますます居づらくなってきそうです。
こんなことをグズグズ思ってしまう自分が嫌です。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12293379962)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
無宗教者で、献金もしたことがない者の勝手な感想ですが、そんなに苦しい思いをするために信仰をしてるのでしょうか?
献金や寄付をする行為は貴いと思いますが、神様は苦しんですることを教えられているのでしょうか?
お釈迦さまは、托鉢に向かう弟子たちに、「お金持ちの家ではなく、貧しい人たちの家を回って托鉢をしてきなさい」と言ったそうです。
貧しい人たちは、これまで施しをしてこなかった。だから貧しい。他人に与える喜びを味わってもらう。これも托鉢の目的だったのです。
ですが、自分も今日食べるパン一個しかないのに、それを他人に与えては自分も苦しいです。「では半分に分けましょう」。これはいいと思います。
与えることが喜びにならなければ托鉢でも献金でも目的がズレてしまうと思うのです。
半分に分けることは喜びが残りますが、全部与えてしまうと喜びもゼロになってしまう気がするのです。
与えたら、与えられると心から信じられて、全部与えても喜べるのならいいと思います。
ですが、すべての人がそうではありません。
だから、自分に喜びが残る最大の量を与えるのです。
神様は、自分に素直に正直にできる範囲ですることを望まれているのでは?と思うのです。
最初は、自分の分しかないからと与えることができなかった。だけど、次はひと口のパンを与えた。そうすると、与えた分が与えられた。次は3分の1、また与えた分が与えられた。次は半分、また与えた分が与えられた。次は与えたら与えられることを信じて手元には何も残らないがパン1個を与えた。
そうやって、与えることの貴さを丁寧に学んでいくことが大事なことだと思うのです。
○自分に正直に与える幸せ
イチローさんの話で、とてもいいお話があります。
お金の使い方にもっともその人の人間性が出ます。
稼ぐことも大事だけど、どう使うか?
他人が喜ぶことにお金を使うことができれば、与えられた人も喜ぶし、与えた自分も幸せになるのです。
そこから分かるのは、与えられた人だけが喜んでもダメだということです。
そのことで自分も幸せにならなければ、それは少し間違っている気がするのです。
「先々で返ってくる」と思って先に与えることは、耳障りが良く、一見善いことをしている感じもするのですが、後から返ってくるのを待っている気がして、いささかさもしい気もします。
それより、与えたら、即「喜び」が返って、幸せになったという方が綺麗で純粋なものが流れると思うのです。
ですから、自分が喜べる分だけ与える。そして、その量がだんだんと増えていく。
自分が喜べる量を自分に素直に正直に与えること。
そこで今の自分が測れるのです。
質問者さまは、他人の目が気になるということですが、それで他人の目が気になっている自分が分かるし、その中で自分に素直に生きることを学んでいくのも献金の意味のような気がするのです。
では、ごきげんよう。さようなら。
電子書籍を出版しています。
Unlimited会員なら0円で購入できます。
ぜひ、お読みください。m(_ _)m
●喜びの与え方|自分に正直に与える幸せのまとめ
今日は「喜びの与え方|自分に正直に与える幸せ」と題して、喜びの与え方について考えました。
○喜びの与え方
最初は、自分の分しかないからと与えることができなかった。だけど、次はひと口のパンを与えた。そうすると、与えた分が与えられた。次は3分の1、また与えた分が与えられた。次は半分、また与えた分が与えられた。次は与えたら与えられることを信じて手元には何も残らないがパン1個を与えた。
そうやって、与えることの貴さを丁寧に学んでいくことが大事なことだと思うのです。
○自分に正直に与える幸せ
自分が喜べる分だけ与える。そして、その量がだんだんと増えていく。
自分が喜べる量を自分に素直に正直に与えること。
そこで今の自分が測れるのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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