ジャッジを手放す|結果を気にしない
ジャッジは必要なことですが、善悪だけではなく自己理解や他者容認も大切です。
自分の悪い部分を認め、他人も許すことが大切ということです。
自己正当化をやめ、生き方を修正し、結果を受け入れて最善を尽くすことです。
今日は「ジャッジを手放す|結果を気にしない」と題して、ジャッジを手放すについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
●ジャッジを手放す|結果を気にしない
○ジャッジを手放す
私は自分のことも他人のことも、あれこれジャッジをしてしまいます。ジャッジを手放すには、どうしたら良いのでしょうか?
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293360364)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
ジャッジをするということは、人間が生きていく上で必要なことです。
ジャッジというのは「善悪」をジャッジするだけではないからです。
たとえば、私とあなたを区別すること。これもジャッジです。
ですから、ジャッジをなくすことはできないのです。
ただ、その必要なジャッジをする時に、(たとえば)善悪をひっつけてしまうのが人間の性なのです。
そのことを見抜いて、善悪を切り離すことができると、質問にある「ジャッジを手放す」が実現するかもしれません。
なかなかジャッジを手放すことは難しいと思うのですが、考え方としては、自分の悪い部分、醜い部分を知ること、認めることだと思います。
人は自分のことを正しいと思っています。
頭では、誰にでも良い部分、悪い部分があると知っていますが、見えているのは自分の正しさだけです。
裏を返すと、相手の悪いところばかりを見てしまっているのです。
だから、他人のことをジャッジしてしまうし、許すことができません。
ですので、自分の悪い部分、醜い部分を知ること、認めることができると、他人のことも許すことができ、ジャッジする心も小さくなります。
とは言っても、自分のすべてを知ることはできませんので、ジャッジを完全に手放すことは難しいのです。
ジャッジをしてしまう時も、「自分にも悪い部分、醜い部分がある」ということを忘れないことです。
それは、他人にも悪い部分と、良い部分があることを忘れないことでもあるのです。
○自分のことをジャッジするのも理屈は同じ
自分のことをジャッジするのも理屈は同じです。
外面では「自分と他人」。ところが内面では「自分と自分」で同じことをしているのです。
自分の中の「良い自分」が「悪い自分」をジャッジし、「悪い自分」が「良い自分」をジャッジしているのです。
なぜなら、良い自分は悪い自分にとって「悪い自分」だし、悪い自分は良い自分にとって「悪い自分」だからです。
「自分」という意識は、常に相対する相手を作り、善悪というジャッジをするのです。
自分の中には良い部分と悪い部分があります。
どちらも自分なのです。
正しい自分でいたいという奥底の思いが、そうでない自分をジャッジしているのです。
「許す」というのは、悪い自分を放ったらかしにしていいということではありません。
では、逆に正しい自分は絶対に正しいのか?と言えば、それも怪しいわけです。
ですが、自分が信じる正しい道を歩く以外に道はありません。
自分が信じる正しい道を歩きながら、悪い部分に気づいたら、その都度生き方や考え方を修正していけばいいわけです。
そのためには、悪い部分があれば、素直に認めていく。それが許すということになると思います。
そして、それができれば、他人のことも許すことができるようになるのです。
○結果を気にしない
極論になってしまいますが、ジャッジをすることを悪とすることも「ジャッジ」です。
それも自分の正しさです。
その正しさから降りることも、ジャッジを手放す一歩になるような気がします。
生きていると、仕事での判断、人間関係での判断、言葉のチョイスなど、自分の言動をジャッジしてしまうことが数限りなくあります。
その度に、さっきの言い方は間違ってなかったか?もっと良い手はなかったか?と悩みます。
なかなかできないのかもしれませんが、可能な限り、そこから降りれる時は降りるのです。
どういうことか?というと、結果を気にしないということです、
何かをすれば結果がでます。良い時もあれば悪い時もあります。
ただ、「人間万事塞翁が馬」です。
悪い結果が、後々になって良い結果に結びつくこともあります。その逆もあります。
だから、過去の自分の言動をジャッジすることから降りて、結果を受け入れ、そこから最善を尽くすことに決めるのです。
他人がミスをしたり、間違ったことをしても、責めるのではなく、そこからどう最善を尽くすか?を指し示すのです。
では、ごきげんよう。さようなら。
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ぜひ、お読みください。m(_ _)m
●ジャッジを手放す|結果を気にしないのまとめ
今日は「ジャッジを手放す|結果を気にしない」と題して、ジャッジを手放すについて考えました。
○ジャッジを手放す
なかなかジャッジを手放すことは難しいと思うのですが、考え方としては、自分の悪い部分、醜い部分を知ること、認めることだと思います。
○自分のことをジャッジするのも理屈は同じ
自分のことをジャッジするのも理屈は同じです。
外面では「自分と他人」。ところが内面では「自分と自分」で同じことをしているのです。
自分の中の「良い自分」が「悪い自分」をジャッジし、「悪い自分」が「良い自分」をジャッジしているのです。
○結果を気にしない
極論になってしまいますが、ジャッジをすることを悪とすることも「ジャッジ」です。
それも自分の正しさです。
その正しさから降りることも、ジャッジを手放す一歩になるような気がします。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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