存在としての価値を認めるために|他人からの承認ではなく、自分の心で
存在としての価値は、他人からの承認ではなく、自分の心で認めることで得られます。
そのためには、他人と自分を比べないこと、そして、他人の存在を畏敬の念を持って見る必要があります。
今日は「存在としての価値を認めるために|他人からの承認ではなく、自分の心で」と題して、存在としての価値について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
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くろちゃんは、
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くろちゃんです。
●存在としての価値を認めるために|他人からの承認ではなく、自分の心で
○存在としての価値を認めるために|他人からの承認ではなく、自分の心で
人間は、行動や行為としての価値以前に、より本質的な価値として「存在としての価値」を認められなくてはならないと思います。それが足りていない世の中のように見えます。
面白いものだなと思うのは、犬やネコその他のペットの類に対しては「存在としての価値」を人間は認めています。赤ん坊などに対しても同様です。また日本国の象徴たる天皇の価値としても同様で、「存在としての価値」というものが認められています。
ところが、一般的な傾向として、人は人に対し、「存在としての価値」を認めず、たとえば老害などという言葉を発する人々がいる現状があります。
人が一人の存在として認められる日というのは、一体いつになったら来るのでしょうか。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13288540918)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
自分が自分の存在の価値を心の底から認めたときに、他人からの承認が必要なくなり、また自分も他人の存在価値を心から承認できるようになる。
これ以外に方法はないし、これ以上もないのかもしれないと思います。
人間は自分のできることしかできません。また他人をコントロールすることもできません。
仮にできたとしても、他人が私の、または他人が他人の存在価値を認めているか否かは、目に見えず確認もできないのです。
目に見えないことを頭で考えるのではなく、自分のできること。つまり、どうすれば自分の存在の価値を心の底から認めることができるのかを考える方が実現可能性があります。
私が見ているモノ。それがイコール世界ですから、他人が自分を、他人が他人をどう評価しているか?を考えること自体、実は必要のないことなのです。
質問者さまがおっしゃるように、犬やネコなどのペットには「存在」そのものに価値を見出しています。
それは、ペットと自分を比べないからです。競争相手ではないからありのままの存在を認められるのでしょう。そういう意味では赤ん坊も天皇も同じです。
自分と比べようのない存在はありのままに見ることができるのです。
ですが、ひとたび同じ土俵の上で比べる対象になると話は別で、優劣をつけ、嫉妬が生まれ、存在そのものを否定してしまうことさえあるのです。
職場に新入社員が入ったときを思い出すと、何も知らない新人時代は存在そのもの(笑顔や振る舞い)を見て評価できるのに、ある程度仕事を覚えてくると見え方が変わってしまうということがあります。
つまり、自分と他人を比べないことが、他人の存在をありのままに認める唯一の方法なのだと思うのです。
○他者に畏敬の念を持つ
自分が自分の存在価値をありのままに認めることと、他人の存在の価値をありのままに認めることは1セットです。同じひとつの行為なのです。
それは、人間同士だけでなく、他の動物やモノ、森羅万象すべてに対し畏敬の念を持つこととも同じなのです。
2008年にフジテレビで放送されたドラマ『鹿男あをによし』のオープニングナレーションは中井貴一さんで、こんな内容でした。
かつて、倭の国と呼ばれたこの地には、八百万の神が住んでいたという。人々はそれを崇め、自然と共に生きていた。
しかし、幾千年の時が過ぎ、人々はいつしか自然に逆らうようになった。そう。運命は己の手の中にあると信じ、大いなる力の存在のことなど、もはや忘れてしまったのである。
かつて、倭の国と呼ばれたこの地に、史上空前の危機が今、襲いかかろうとしている。それを憂いた神の使いは、西暦2007年の神無月、とある一人の男に、白羽の矢を立てた。
古の日本民族が自然と共存してきたことを端的にまとめた素晴らしいナレーションです。
八百万の神とは、森羅万象すべてのことを指していて、その中には我々人間も入っています。
人間の心の中にも神は宿っているのです。
きっと、古の日本人は、人間同士でもお互いに畏敬の念を抱き暮らしていたのだと思うのです。
つまり、お互いに存在の価値を認めあっていたのです。
ところが、人々はいつしか自然に逆らうようになったのです。大いなる存在がなくても自分たちの力で幸せになれると信じてしまったのです。
それはイコール他人の存在がなくてもということと同じなのです。
そして、他人の存在価値を認められないようになってしまったのかもしれません。
○愛されたいなら愛さなければ
金八先生からの受け売りですが、人間とは人の間と書きます。
人と人の間で生きるから人間なのです。
個の時代と言われて久しいですが、個人の権利を主張したり、個性を大事にと言う一方で、自分は何のために生きているかわからないとか、生きづらさを感じているとか言う人があります。
人と人の間で生きようとしなければ、それも当然なのかもしれません。
一人は楽ですが、その代わり寂しさもセットだからです。他人のことをかまわない代わりに、他人からもかまわれません。
自分は一人で楽をしたい。でも他人には、自分を見て愛して欲しいというのは、あまりに虫が良すぎるのです。
愛されたいなら愛さなければいけません。
認められたいなら認めなければならないのです。
では、ごきげんよう。さようなら。
電子書籍を出版しています。
Unlimited会員なら0円で購入できます。
ぜひ、お読みください。m(_ _)m
●存在としての価値を認めるために|他人からの承認ではなく、自分の心でのまとめ
今日は「存在としての価値を認めるために|他人からの承認ではなく、自分の心で」と題して、存在としての価値について考えました。
○存在としての価値を認めるために|他人からの承認ではなく、自分の心で
自分が自分の存在の価値を心の底から認めたときに、他人からの承認が必要なくなり、また自分も他人の存在価値を心から承認できるようになる。
これ以外に方法はないし、これ以上もないのかもしれないと思います。
○他者に畏敬の念を持つ
八百万の神とは、森羅万象すべてのことを指していて、その中には我々人間も入っています。
人間の心の中にも神は宿っているのです。
きっと、古の日本人は、人間同士でもお互いに畏敬の念を抱き暮らしていたのだと思うのです。
○愛されたいなら愛さなければ
自分は一人で楽をしたい。でも他人には、自分を見て愛して欲しいというのは、あまりに虫が良すぎるのです。
愛されたいなら愛さなければいけません。
認められたいなら認めなければならないのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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