中庸のひとつの姿|どっちもある!?
中庸を語ると中庸じゃなくなる。
中庸という概念を言葉にすると、それはひとつの正解で偏りになってしまうからです。
なので、中庸という概念を語ることは難しい。
今日は『中庸のひとつの姿|どっちもある!?』と題して、中庸のひとつの姿について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
中庸のひとつの姿|どっちもある!?
どっちもある!?
何故バランス、中庸を保つのって難しいの?脳の影響ですか?何事も、「程々がいい。」と簡単に言うわりに、その程々ってめちゃくちゃレベル高いのでしょうか?
普通の人は、思想が左、右に偏ってしまうか、その他は中間を保ってるのではなく、「ただ流されてるだけ」である場合が非常に多くないですか?騙される人も多いし、もう二度と騙されるまいと思う人は行き過ぎてクレーマーっぽくなったり。ワクチン賛成派反対派に分かれたり。
私はあくまで、「ワクチンなんて自分で判断して決めたり、家族と話し合って決める、でいいんじゃないか。」と思うのですが、両極端に意見が分かれたり、その他の人も自分の意見ではなく、「ただ流されてるだけ」、の気がします。
私が思う「自分の意見」というのは、「どっちの意見も一理ある、理解できるよなぁ」となるので、結果的に「自分の判断で」決めるしか道がない=中間的な考え、みたいな感じです。
だって、本当に「普通に」✖︎100000000考えたら、そうじゃないですか?なのに、皆からは、まるで私が変わってるかの様に言われます。だから、もしかして「中間的な考え」って実はレアで難しかったりするのでしょうか?
誰か意見をお願いします!!!
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11271238226)
みなさん、ごきげんよう。
今日もよろしくお願いします。
質問者さまに同感です。
中庸というのは真ん中という意味ではないと解釈しています。
真ん中ではなく、”すべて”ということ。
平たくいえば『どっちもあるよね』という考え方、思想です。
なので、多くの人に理解されないどころか、対立してしまうと思います。
というのは、意識、無意識はあるにしても、多くの人は自分の『正解』を持っているからです。
この意見だって、ある種『正解』を論じているわけです。
なので、中庸ということを体現するのはかなり難しいと思います。
かといって、何も言わずに黙っていることとは違う気がします。
そこで、中庸を真ん中とか中間とか言わずに、『自由自在』的な言葉にしたらいいなと思います。
中庸という言葉を『どちらにも偏らない』と訳されてしまうと、右とか左とか、どちらにも偏らない?だとすると真ん中!?みたな印象を受けます。
ですが、それは違う視点から見ると『すべて』とか、『どちらも』と解釈出来ます。
そうすると、『どっちもあるよね』という感じで『決めれない子』みたいになるので、『自由自在』ならどうだろう?と思うわけです。
はじめから自由なので、『どっちも在る』なのです。
中庸を実践する
僕は心臓が悪いので定期的に心電図を取ります。
心電図は、取る前に『力を抜いてください』と言われるのですが、昔から健康診断などで心電図を取ると、取り始めてから再度『足に力が入ってます。力を抜いてください』などと言われていました。
力の抜き方がわからなくて、力を抜こうと思えば思うほど逆に緊張して力が抜けませんでした。
なので、心電図が好きではありませんでした。
ですが、上記のような中庸の考え方に気づいてから、心電図が好きになりました。
どういうことか?というと。
自分の中心に意識を置くと手足の力が抜けることがわかったからです。
つまり、手足の力を抜こうと思うことは、逆に手足に意識を向けてしまうことだ気づいたわけです。
自分の意識を自由自在にして、自分の中心に意識を置くことで、手足の力が抜けるようになったのです。
それから『足に力が入ってます。力を抜いてください』などと言われなくなりました。
自分の中心に意識を置くというのは、偏らずに真ん中を意識するということではないのです。
それだと言葉では真ん中と言いながら、意識は手足に行ってしまいます。
言葉にすると説明が難しいですが、『無いものが在る』ということです。
意識は置かないけれど、手足がなくなったわけではないのです。
言い方を変えると、全体の中の『私』の位置を意識することです。
『私』は世界の一部として存在しています。
意識は『私』にあるけれど、世界も同時に存在しています。
『私』が強いと周りの存在を忘れてしまうし、周りばかり気にしていると『私』がないがしろになります。
常に世界の中の『私』を意識するということが中庸だと気づいたわけです。
なので、僕の中では心電図は中庸を実践するいい機会なのです。
中庸のひとつの姿
『私』と世界の関係を意識することが中庸のひとつの姿です。
『私』の思う正解があります。
ですが、『私以外』が思う正解も同時に存在しています。
『私以外』とは、世界のことです。
『私』が強いと『私の正解』が絶対になってしまいます。
ですが、『私以外』が思う正解だって、この世界には存在しています。
それを意識する。
普段から、『私』の目線と『私以外』の目線を意識することで、対立をしたときに相手の言い分もわかるとか、はじめから相手の立場を理解した言い方や振る舞いをするとか。
そういうことが中庸の実践になります。
常に『私』と世界の関係を意識して、『私』という意識を自由自在にして、ときに相手の立場を意識することです。
そうすると、どちらにも偏らないありのままの立場でいられるのです。
簡単ではありませんけどね。(笑)
では、ごきげんよう。さようなら。
中庸のひとつの姿|どっちもある!?のまとめ
今日は『中庸のひとつの姿|どっちもある!?』と題して、中庸のひとつの姿について考えました。
どっちもある!?
中庸というのは真ん中という意味ではないと解釈しています。
真ん中ではなく、”すべて”ということ。
平たくいえば『どっちもあるよね』という考え方、思想です。
中庸を実践する
『私』は世界の一部として存在しています。
意識は『私』にあるけれど、世界も同時に存在しています。
『私』が強いと周りの存在を忘れてしまうし、周りばかり気にしていると『私』がないがしろになります。
常に世界の中の『私』を意識するということが中庸だと気づいたわけです。
なので、僕の中では心電図は中庸を実践するいい機会なのです。
中庸のひとつの姿
常に『私』と世界の関係を意識して、『私』という意識を自由自在にして、ときに相手の立場を意識することです。
そうすると、どちらにも偏らないありのままの立場でいられるのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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