道悪を歩くと禅になる|不幸せは幸せになるための幸福道路
禅とは、『今を生きる』心を養うことです。
そのためにはあえて道悪を歩くということがおすすめです。
今日はその理由を書いていきます。
今日は『道悪を歩くと禅になる|不幸せは幸せになるための幸福道路』と題して、道悪を歩くと禅になるについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
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そして、
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くろちゃんです。
道悪を歩くと禅になる|不幸せは幸せになるための幸福道路
道悪を歩くと禅になる
禅にも色々な禅があります。
その中に歩行禅というものがあります。
禅とは、たったひとつのことに専念することで、『今に心が在る』ことを目指すもの。
そう解釈しています。
歩行禅とは。
歩くときに、右、左、右、左と足を意識して歩きますが、その意識をもっと細かくして、右の踵が地面について前方向に体重が移動して、右のつま先で地面を蹴るという風に細かく意識して歩きます。
これまで右としか意識していなかったことを『右の踵が地面について前方向に体重が移動して、右のつま先で地面を蹴る』と意識を広げていきます。
これを左も繰り返します。
もっと意識を深くすると、もっともっと細かくなるかもしれません。
普通に右、左、右、左としか意識していないと、右と左の間に間(ま)が生じます。
この間(ま)に歩く以外のことを考えてしまいます。
これでは”たったひとつ”のことに専念したことになりません。
つまり禅にならないわけです。
なので、右とだけ意識しているところを『右の踵が地面について前方向に体重が移動して、右のつま先で地面を蹴る』と細かくしていきます。
そうすると間(ま)がなくなります。
歩く以外のことを考える間(ま)がなくなるのです。
これで”歩く”というたったひとつのことに専念することが出来ます。
ですが、人は慣れていきますので、いくら細かくしてもその意識のスキをついて間(ま)をつくり、別のことを考えてしまいます。
そこで道悪を歩くことをおすすめします。
道悪が禅を深める
なぜ道悪がいいかというと。
意識をどんどん細かくしていって間(ま)を埋めていくということも禅を深める方法ですが、追いかけっこのようなところがあります。
その追いかけっこが、また禅でもあるのですが、別の方法として、わざと道悪を歩くという方法があります。
なぜ道悪がいいかというと、慣れをつくることが出来ないからです。
たとえばアスファルトを歩いていると、毎歩同じよう所に足が着地します。
もう考えなくても歩くことが出来ます。
つまり歩くことに意識を置く必要がなくなってくるのです。
歩く以外のことを考える間(ま)が簡単につくれます。
これでは禅になりません。
ですが、道悪はそうはいきません。
道悪は毎歩、着地する足の環境が違います。
足が着地するたびにその環境を判断して、体重のかけ方、身体のバランスを判断しなければいけません。
つまり歩く以外のことが考えられないのです。
歩くこと自体が禅な上に、道悪ならその深さは一層深くなります。
たとえば、足一足分しか幅のない平均台の上を歩くとき、歩く以外のことを考えながら歩けますか?
足一足分しか幅のない平均台の上にきっちり足を置くことに意識を集中するはずです。
意識が完全に『今』に集中しますね。
これが禅なのです。
不幸せは幸せになるための幸福道路
さて、禅の目的は、当たり前ですが歩くことではありませんし、座ることでもありません。
その行為を通じて、『今を生きる』心を養うことです。
道悪を歩くことで『今を生きる』心が養われるのであれば、人生でも同じことが言えるのではないかと考えたのです。
つまり、何ごともない平穏な毎日よりも、家族の問題や人間関係、仕事など、困難なことが起こる日々の方が心が養われるということです。
困難なことを乗り越えるために心を養うのではなく、困難なことを体験することが心を養うことになると考えるのです。
なぜ、困難なことばかり起こるのだろう?と考えるのではなく、この困難を体験すると自分は成長するのだと考えるのです。
そう考えると、大歓迎とまではいきませんが、困難なことに対する苦も小さくなると思うです。
毎日が、スポーツでいうキツイ練習です。
キツイですが、それは必ず試合で生きるわけですから、結果を出す選手ほどキツイ練習をしています。
キツイ練習は道悪ではありません。
その先に栄光がまっている幸福道路です。
不幸せは幸せになるための幸福道路なのです。
道悪を歩くと禅になる|不幸せは幸せになるための幸福道路のまとめ
今日は『道悪を歩くと禅になる|不幸せは幸せになるための幸福道路』と題して、道悪を歩くと禅になるについて考えました。
道悪を歩くと禅になる
右とだけ意識しているところを『右の踵が地面について前方向に体重が移動して、右のつま先で地面を蹴る』と細かくしていきます。
そうすると間(ま)がなくなります。
歩く以外のことを考える間(ま)がなくなるのです。
これで”歩く”というたったひとつのことに専念することが出来ます。
ですが、人は慣れていきますので、いくら細かくしてもその意識のスキをついて間(ま)をつくり、別のことを考えてしまいます。
そこで道悪を歩くことをおすすめします。
道悪が禅を深める
道悪は毎歩、着地する足の環境が違います。
足が着地するたびにその環境を判断して、体重のかけ方、身体のバランスを判断しなければいけません。
つまり歩く以外のことが考えられないのです。
歩くこと自体が禅な上に、道悪ならその深さは一層深くなります。
不幸せは幸せになるための幸福道路
キツイですが、それは必ず試合で生きるわけですから、結果を出す選手ほどキツイ練習をしています。
キツイ練習は道悪ではありません。
その先に栄光がまっている幸福道路です。
不幸せは幸せになるための幸福道路なのです。
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