充実した凡人の悟り|悟りの段階を超えて、心の底まで見つめる
人は悟りを得る段階があり、今いる段階で幸せに生きることが重要です。
経験が豊富な人ほど、物事を深く理解できますが、それでも見えないことがあります。
自分にもわからないことがあることを知ることが悟りであり、他人を傷つけずに優しい心で接することが大切です。
今日は「充実した凡人の悟り|悟りの段階を超えて、心の底まで見つめる」と題して、凡人の悟りについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
●充実した凡人の悟り|悟りの段階を超えて、心の底まで見つめる
○充実した凡人の悟り|悟りの段階を超えて、心の底まで見つめる
私が尊敬する友人は、解脱などすることなく、何度でも人間に生まれたい、自分は輝ける凡人を目指す、苦しいときほど生きている充実感があると言っています。
彼の信仰は己教であり、人にもそれを奨めたいと言っております。
ちなみに、彼はあらゆる宗教関連の質問にも、哲学的難題にも即座に答えます。
彼の境地、無住処涅槃に近いものだと言えますか。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293053954)
※質問は原文ママです。
無住処涅槃(むじゅうしょねはん)
完全な涅槃にも住せず、煩悩のある迷いの世界にもとどまらない涅槃をいう。
完全な涅槃にとどまっていては悩みのある多くの人びと(衆生)を救うことができないし、生死の悩みに束縛されていては自らもさとることができないから、生死を脱した涅槃にも生死界にもとどまらず衆生を救うという。菩薩が大悲をもって衆生界で活躍するという大乗仏教の菩薩行を背景として生れた語である。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
悟りにも段階があるといいます。
その段階の定義は置いておいて、例えるなら釈迦やキリストのように、自分の悟りを他人に伝え悟りに導ける人。高名な教育者や哲学者のように自分の言葉で他人の魂に火をつけることができる人。そして、凡人として生きているけれど、場を巻き込み、その人がいるだけで動きたくなる気持ちにできる人、などです。
きっと、質問者さまのご友人の方も、そのような人たちの、どこかに属する方なのだと感じました。
人間は姿形は同じですが、その肉体(五感)を通して、見て感じること、聞いて感じること、味わって感じること、嗅いで感じること、触った時に感じることは、一人ひとり違います。
その違いに優劣はないと思うのです。それぞれが自分の感じたいように感じ、その感じ方で幸せになり、不幸せにもなります。
悟りに段階があると表現しましたが、今回の質問に回答するにあたり、悟りの段階も優劣をつけるモノではないのだと思ったのです。
見るモノに対する抽象度が上がっていけば、見えるモノが増えていき、これまで善悪の区別を感じていたモノが、実は同じひとつの思いから発せられているとわかる段階があります。
抽象度が高くなるということは、高い視座でモノが見れるようになるということです。
なので、抽象度があがることが優れた悟りだと解釈されがちですが、少し違うことを思いました。
それは、悟ることが目的なのか?幸せに生きることが目的なのか?ということです。
「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子先生のお言葉があります。
どの段階にいても、その置かれた場所で幸せになることが本当の意味で優れた悟りだろうと思ったのです。
○悟りの段階を超えて、心の底まで見つめる
一般論ですが、入社したての新入社員よりも、入社何年にもなるベテラン社員の方が視座高くモノを見ているものです。
ベテランから見れば、新入社員は物事を浅く捉え思慮が足らないように見えるでしょう。
ところが、ベテランゆえに見えていないことだってあるかもしれないし、人は、一人ひとり違いますから、新人だろうが、ベテランだろうが、そもそも見えているモノが違うということもあるのです。
その違いに優劣がつけられるのでしょうか?
自分が、神さまで、この世界の隅々まで見ることができ、すべての善悪がわかる存在であるならば、優劣をつけることができるかもしれません。
私たちは人間です。相手に見えていないモノがあるように、自分にも見えていないモノがある。
それが心からわかると優劣をつけることができなくなります。
「自分にもわからないことがある」。そう思っている人は他人に優しくなれます。
「自分はすべてわかっている」と思っている人ほど、傲慢で人を傷つけてしまうのです。
悟るとは、もしかすると、すべてを見通せるようになることではなく、自分には見通せない他人の思いや考えがあることを心からわかることではないかと思ったのです。
その考えから、無住処涅槃を読み解くと、自分のことを深く知り、そうすると他人のこともよくわかるようになります。だけど、それでも見通せない他人の思いがあることを忘れず、深く他人の思いに心を馳せることができる境地にいる人のことだと言えるのではないでしょうか。
では、ごきげんよう。さようなら。
電子書籍を出版しています。
Unlimited会員なら0円で購入できます。
ぜひ、お読みください。m(_ _)m
●充実した凡人の悟り|悟りの段階を超えて、心の底まで見つめるのまとめ
今日は「充実した凡人の悟り|悟りの段階を超えて、心の底まで見つめる」と題して、凡人の悟りについて考えました。
○充実した凡人の悟り
悟りにも段階があるといいます。
その段階の定義は置いておいて、例えるなら釈迦やキリストのように、自分の悟りを他人に伝え悟りに導ける人。高名な教育者や哲学者のように自分の言葉で他人の魂に火をつけることができる人。そして、凡人として生きているけれど、場を巻き込み、その人がいるだけで動きたくなる気持ちにできる人、などです。
○悟りの段階を超えて、心の底まで見つめる
悟るとは、もしかすると、すべてを見通せるようになることではなく、自分には見通せない他人の思いや考えがあることを心からわかることではないかと思ったのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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