社会というシステムの中で生きる ルールの中で自由に生きる ルールの見え方
ルールは何のためにあるのか?
私たちはルールを守るために生きているわけではありません。
私たちが生きやすいようにルールがあるのです。
それを誤解するとルールが私たちを苦しめることになります。
今日は『社会というシステムの中で生きる ルールの中で自由に生きる ルールの見え方』と題して、社会というシステムの中で生きるについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
社会というシステムの中で生きる ルールの中で自由に生きる ルールの見え方
社会というシステムの中で生きる
人ってなんの為に生きてるんですか?
誰か私の考えを改めてください。
7歳~22歳までのほとんどを学校に奪われ、次は死ぬまで労働。(もちろん人によりますが)
そもそもなぜ勉強するのか→いい学校に進学するため→なぜいい学校に進学するのか→いい仕事に就くため
この次にいい人生を送るためと続くのかもしれませんが…
人生のほとんどを学校と労働に奪われ、なんの為に生きているのか分かりません。完全に自由な期間は幼く何もできない子供の頃と、老いて何もできない高齢者の頃だけです。
学校も仕事もしなければいいと思われるかもしれませんが、それでは豊かな生活を送ることができません。
そもそもなぜ勝手に産み落とされたのに自ら労働して生活しないといけないのかよく分かりません。
だからと言って生存本能に抗うこともできず…
このひねくれた?考えをどうにか正していただけないでしょうか。このままでは幸せな人生を送れる気がしません。
思うことをただ書き連ねたのでぐちゃぐちゃかもしれませんがよろしくお願いします。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12269846307)
みなさん、ごきげんよう。
今日もよろしくお願いします。
今回の質問にある『7歳~22歳までのほとんどを学校に奪われ』云々、『死ぬまで労働』云々というのは、生まれた以上、そう生きないといけないという絶対的なルールではありません。
これは、『私』たちが今現在生きている社会のシステムの話です。
『私』たちの社会以外に身を置けば、その社会にはその社会のシステムがあるでしょう。
日本にはかつて、放浪民、山の民と呼ばれたサンカ(山窩)という集団があったそうです。
もしかすると、今でもひっそりとどこかの山にいるのかもしれません。
サンカ(山窩)は、同じ日本にある、もうひとつの社会ですが、『私』たちが暮らす社会とは完全に別の社会です。
そういう別社会で生きれば、今回の質問者さまのような悩み、疑問はなくなるかもしれません。
代わりに、その社会にはその社会のシステムがあって、また別の悩みや疑問が生まれるかもしれません。
何が言いたいか?というと、『私』たちは、ありもしない『こうしなければ生きていけない』にがんじがらめに縛られ、ときにそれに悩み、苦しんでいるということです。
それを見抜くことが出来たら、ありもしない、目にも見えない縛りはなくなってしまうのです。
ルールの中で自由に生きる
どんな社会で生きていても、その中にルールなり、システムなりがあります。
ですが、それは本来『私』たちを縛るものではないと思います。
『私』たちのためにルールがあるのであって、『私』たちはルールを守るために生きているわけではないからです。
交通ルールを守ったために車に轢かれてしまっては本末転倒です。
なので、ルールは、秩序を保つために守られなければいけませんが、それに縛られるのはおかしな話です。
ルールと自由、両方がこの世界の中で共存しています。
どちらかが正解なのではなくて、どちらも正解なのです。
法律は守らなければいけませんが、法律を作る自由も変更する自由も同時にあるということです。
そのことを知っていれば、このシステムの中で自由を意識しながら生きていけると思います。
ルールの見え方
僕は中学生の頃、教護院というところにお世話になっていました。
今は、児童自立支援施設というそうです。
そこは、施設の中に児童が住む寮があり、学校があり、畑などの作業もします。
成績優秀者が一時帰省できるシステムはありましたが、基本的には、退園の許可が出るまでは、施設から一歩も出ることが出来ません。
ある意味、ルールに縛られているといえるわけですが、実は僕にとってそこは大変居心地のいい場所でした。
なぜ、居心地がよかったのか?
理由は色々あったと思うのですが、一番僕にとって楽だったのは、ルールを守ることが当たり前だと思えたことです。
外の世界もルールを守ることは当たり前ですが、いかにうまくルールを破り得をするか?みたいなズルい生き方が評価されるような集団で生きていたのです。
だから、教護院にお世話になったわけです。
ですが、そういう世界はキツイです。
そういう世界には、ルールを破って、うまくいかなければいけないというルールがあります。
逆にそのルールに縛られていたのです。
なので、堂々とルールを守ることが出来る施設の中は、とても居心地がよかったというわけです。
ですが、これは社会のせいでもなければ、集団のせいでもありません。
自分が自分の中で作ったルールに縛られていただけなのです。
それは、大人になって社会に出ても同じです。
良い学校を出て、良い会社に入るという道を歩けなかったのだから、その地道な努力を埋める努力を堂々とすればよかったのですが、地道な努力をすることを否定することで、自分の人生を肯定しようとして生きてきたような気がします。
いわゆる、一攫千金することで、差を一発で解消する以外に人生を肯定する道がないような気がしていたんです。
だから苦しかったのだと思います。
もっとシンプルに考えたら、過去どうだったからとか、誰がどうだとか関係なく、今必要だと思うことをすればよかっただけなのです。
今も完全にそういうコンプレックスがなくなったわけではありませんが、そういう自分の心の動きを素直に認めた分だけ、心が楽になった気がします。
ルールは自分を苦しめるためにあるのではなく、自分を生かすためにあるのだと思えばルールの見え方が変わると思います。
では、ごきげんよう。さようなら。
社会というシステムの中で生きる ルールの中で自由に生きる ルールの見え方のまとめ
今日は『社会というシステムの中で生きる ルールの中で自由に生きる ルールの見え方』と題して、社会というシステムの中で生きるについて考えました。
社会というシステムの中で生きる
日本にはかつて、放浪民、山の民と呼ばれたサンカ(山窩)という集団があったそうです。
もしかすると、今でもひっそりとどこかの山にいるのかもしれません。
サンカ(山窩)は、同じ日本にある、もうひとつの社会ですが、『私』たちが暮らす社会とは完全に別の社会です。
そういう別社会で生きれば、今回の質問者さまのような悩み、疑問はなくなるかもしれません。
ルールの中で自由に生きる
どんな社会で生きていても、その中にルールなり、システムなりがあります。
ですが、それは本来『私』たちを縛るものではないと思います。
『私』たちのためにルールがあるのであって、『私』たちはルールを守るために生きているわけではないからです。
ルールの見え方
過去どうだったからとか、誰がどうだとか関係なく、今必要だと思うことをすればよかっただけなのです。
今も完全にそういうコンプレックスがなくなったわけではありませんが、そういう自分の心の動きを素直に認めた分だけ、心が楽になった気がします。
ルールは自分を苦しめるためにあるのではなく、自分を生かすためにあるのだと思えばルールの見え方が変わると思います。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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