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ひとつのことをすることで全体とつながる|身心脱落の境地

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私があるとき、私は何かを見ていたり、何かを触っていたり、何かを聞いていたりします。

そのとき、私はその何か以外とは切り離されていて、それが私と世界を分けています。

では、なぜ私と世界が切り離されているよりも世界(全体)とつながっている方がいいのか?

今日はそんな話を書いていきます。

今日は『ひとつのことをすることで全体とつながる|身心脱落の境地』と題して、全体とつながるについて考えます

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

ひとつのことをすることで全体とつながる|身心脱落の境地

全体を見ているとき『私』が消える

まだアメブロでブログを書いているころに『全体をぼや〜と捉える。1か所集中ではなく、一点集中で!』というタイトルのブログを書きました。

プロ野球、広島カープの名セカンド菊池涼介選手の帽子のつばがまっすぐな理由というマニアックな内容ですが、その理由が全体をぼや〜と見ることで全体を一点として集中しているという話です。

よく一点集中と言いますが、一点に集中すると、その一点以外が盲点になってしまいます。

そうすると菊池選手のような速いスタートと広い守備範囲は実現しません。

だからといって全体を集中して見るということも出来ません。

集中してしまうと何か一点集中する点のようなものが必要になるからです。

そこで全体をぼや〜と見るイメージで全体を捉えるという感覚です。

菊池選手は、つばを曲げてしまうとひとつのところに集中しやすいので、つばをまっすぐにすることで全体を見るというイメージを作っているというお話です。

これは換言すると、何もしないということです。

(一点に)集中しようとしない。

何かモノをとろうとするとき、そのモノに集中しますよね。

同じように何かを見るときも、見ようと思ったものに集中します。

なので特定のものを見ようとしないということです。

でも見ているわけです。

何を見ているかというと全体をぼや〜と見ています。

私たちは、普段から何かを見るとき、何かを手に取るとき、何かを聞くとき、何かモノを食べるとき、何か匂いを嗅ぐとき、すべて無意識にその何かに集中をしています。

そのとき、それ以外のことが盲点になっています。

その何かに集中しているのは『私』であり、集中することで『私』が起こっているのです。

『私』には思考があります。邪心や作為が起こることもあり、物事をありのままに見ることを妨げます。

予測をするのも『私』です。

予測は当たればすごいですが、外れることもあります。

菊池選手のように、どんなときも速いスタートと広い守備範囲を実現するためには、”ありのまま”に全体を見るという感覚を鍛えることが必要なのかもしれません。

ありのままに全体を見ているとき『私』が消えるのだと思います。

日常生活のすべてが修行

禅というのは何かひとつのことに専念することです。

座ることに専念するのが座禅です。

座禅は、座ることだけに集中しているのか?というと、そうではありません。

座ることを通じて、やはり『何もしない』ということ、『私』を消すということをしているのが禅だと考えられます。

何かをひとつの音を聞くのではなく、すべての音を聞きます。

音だけではなく、呼吸や身体の中で起こる音、自分の感覚のすべてに意識を向けます。

見た目には『座る』という、ひとつのことをしているようですが、自分の内側ではものすごいことが起こっています。

『私』を消すと言いましたが、消そうとするのではなく、『私』以外のすべてに意識を向けることで『私』がなくなるのです。

『私が(我)』音を聞いている。

これは、『私』と音が分かれています。(二元論)

『私』がなくなると、『私』が音になります。(一元論)

『私』がなくなることで、世界とひとつになる。

全体と私がつながるのです。

それが禅だと考えています。

永平寺を開いた道元は、このことを『身心脱落(しんじんだつらく)』と言ったのだと考えています。

禅は座るだけではなく、食禅(じきぜん)、歩行禅など、どんな行為も禅にすることが出来ます。

『聞く』ことを禅にすることも出来るのです。

道元は、生活のすべてを修行(禅)にするということを言いました。

『生活禅』です。

座禅だけではなく、日常生活のすべてが修行だということの気づきです。

私がなくなり全体になることがなぜ大切なのか?

では、私がなくなり全体になることがなぜ大切なのか?

実のところ、これは死ぬまで本当のことはわからないと思っています。

ただ、こういうことかな?と思ったことがあります。

あくまでひとつの例ですが、

それは、イチローの『ビーフを抜いたビーフカレー』です。

イチローのこだわり『ビーフを抜いたビーフカレー』は奥が深い

イチローの『ビーフを抜いたビーフカレー』というのは、ビーフが入っていないわけではありません。

煮込んで旨味を取り出した後にビーフを抜いています。

そして野菜は溶けるまで煮込んで見た目にはルーだけになっているカレーです。

イチローがそれを好む理由は、野菜は日によって感触が違ってしまうからです。

しかし、溶けてしまえば同じです。

安定していて欲しいのです。

これは禅そのものです。

ただ、方法が少し違っていて、座ることで身心脱落に持っていくのが座禅ですが、イチローの場合、野球を通して普段から身心脱落しているので、自分に合ったモノを欲しているということではないかと思います。

『私』はすでに世界に溶け込んでいるので、それと同じモノを欲することで自分の安定を保つということです。

つまり、なぜ身心脱落の状態が大切かというと、『いつでも安定的に、ありのままにこの世界を見通すという境地を確保すること』です。

いつも自分が安定していることで、自分を管理コントロールすることでき、この世界でいえば能力を100%に近い状態で発揮することが出来るということです。

それがイチローの選手時代の成績に表れていると考えられるのです。

自分を完全にコントロールすることが出来れば、すべてはうまくいきます。

スポーツであれば、こうしようと思ったことが実現出来れば負けることはありません。

感情をコントロール出来れば、ほとんどの苦しみは最初から起こりません。

そのために身心脱落の境地、私と全体がつながるという境地を得ることが大切なのだと考えられるのです。

ひとつのことをすることで全体とつながる|身心脱落の境地のまとめ

今日は『ひとつのことをすることで全体とつながる|身心脱落の境地』と題して、全体とつながるについて考えました。

全体を見ているとき『私』が消える 
私たちは、普段から何かを見るとき、何かを手に取るとき、何かを聞くとき、何かモノを食べるとき、何か匂いを嗅ぐとき、すべて無意識にその何かに集中をしています。
そのとき、それ以外のことが盲点になっています。
その何かに集中しているのは『私』であり、集中することで『私』が起こっているのです。

日常生活のすべてが修行 
禅は座るだけではなく、食禅(じきぜん)、歩行禅など、どんな行為も禅にすることが出来ます。
『聞く』ことを禅にすることも出来るのです。
道元は、生活のすべてを修行(禅)にするということを言いました。
『生活禅』です。
座禅だけではなく、日常生活のすべてが修行だということの気づきです。

私がなくなり全体になることがなぜ大切なのか? 
自分を完全にコントロールすることが出来れば、すべてはうまくいきます。
スポーツであれば、こうしようと思ったことが実現出来れば負けることはありません。
感情をコントロール出来れば、ほとんどの苦しみは最初から起こりません。
そのために身心脱落の境地、私と全体がつながるという境地を得ることが大切なのだと考えられるのです。

今日も読んでいただきありがとうございます。

 

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