寛容さとは?|不寛容さを自覚すれば少しだけ寛容になれる
今日は寛容さという話をします。
人間は無自覚に不寛容です。
自分の正しさを持っています。
自分が正しいということは、自分以外が間違っているということですから、その思いが不寛容さになります。
自分の不寛容さに気づくことが出来れば少しだけですが寛容になることが出来るのです。
今日『寛容さとは?|不寛容さを自覚すれば少しだけ寛容になれる』と題して、寛容さについて考えます。
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寛容さとは?|不寛容さを自覚すれば少しだけ寛容になれる
寛容さとは?
日曜日の午後1時半から一部地域を除いて放送されている『そこまで言って委員会NP』(読売テレビ系列)。
11月21日(日)は、女性の社会進出、LGBTへの理解など。諸外国と比べて進んでいないと言われている日本の不寛容さについて徹底討論するという回でした。
その時のゲストコメンテーターは映画監督の行定勲さんでした。
番組タイトルの通り、『そこまで言っていいんかい』というくらい恐れを知らないレギュラーコメンテーターの方たちが歯に衣着せぬ意見を喧々諤々と言い合います。
行定監督は、地元の熊本でも放送があって見たことがあるそうで、よくみなさんこんなこと言えるなと常々思っていたそうです。
前置きが長くなりましたが、番組の最後に行定監督が言われたことに本当にそうだなと感銘受けたので、そのことを紹介して今日のブログのテーマにしたいと考えています。
行定監督が言われたのは、『僕がしゃべったことを田島先生が「でもね」とおっしゃることでひとつの1パッケージで僕は非常に助かった』ということです。
行定監督は、『びびってましたけど助かった』とおしゃっていました。
つまり、自分が言ったことが世間に対してどんな影響を与えるかわからないと思うと、怖くて下手なことは言えないと思っていたのでしょう。しかし、そこで反対意見を言ってくれる人がいたおかげで自分の意見を鵜呑みにするのではなく、ちゃんと反対の立場の意見も聞いた上で選択出来るという状況になることがありがたいということだろうと思いました。
なるほどなと思う反面。こういう考えで物事が見ることが寛容さだなと思った次第です。
この世界は1セット
行定監督は、1パッケージという言葉を使われましたが、ともいきでは1セットという言葉でこのことを表現しています。
会話は、話をする人と聞く人で1セットです。
聞く人がいなければ話すことは出来ません。
買う人と売る人で商売は1セットです。
やはりどちらかだけでは成り立ちません。
どんなに良い商品でも求めている人がいなければ商売にはなりませんよね。
そして、急にたとえが飛んでしまうようですが、いじめもそうなんですね。
いじめっ子はいじめられっ子がいるからいじめっ子になります。
実はいじめっ子はいじめられっ子がいなければただの子、あるいは別の○○な子になったかもしれないのです。
いやいやと。別の誰かをいじめるだけでしょうと思うかもしれませんが、それは別のいじめられっ子がいたんだということですよね。
もしも、そんなことはありえませんが、この世に我の強い、しかも腕力も強い子しかいなかったら、この世界は喧嘩はあってもいじめはないということになりませんか?
決していじめられっ子が悪いということを言っているのではなく、あくまでもこの世界の仕組みの話です。
この世界は1セットなんだということを言いたいのです。
不寛容さを自覚すれば少しだけ寛容になれる
寛容さとは、相手の立場も理解するということです。
理解をするというのは、そちら側に意見を変えるということではなくて、自分に意見があるように相手にも意見があるということを認めることです。
自分を正しいとするのは、逆にいうと世間もみな同じ意見だと強く勘違いをしているか、あるいは世間が間違っていると強く勘違いをしているかのどちらかです。
そしてその勘違いが不寛容さです。
自分の意見もあるし、その反対意見もあるということです。
それで1セット。世界はその集まりで成り立っています。
ただ何かは選ばないといけませんので、時代の要請で何が選ばれるかはその時々です。
自分の意見が採用されるときもあれば、そうでないときもあります。
それに怒ってもいいし、悲しんでもいいのですが、自分の意見が採用されるときもありますから、そこにあまり執着しないということで感情はある程度落ち着くのではないかと思います。
さらに大きな視点で見たら、自分の不寛容さを寛容さで受け止めてくれている存在があるということです。
これも1セットですね。
行定監督も言われていましたが、人間は無自覚に不寛容なんです。
自分が正しいと思いがちです。
それが許されていることがあるということは、それを寛容さで受け止めてくれている人がいるということです。
それを自覚すれば少しだけ寛容さが身につくというわけです。
寛容さとは?|不寛容さを自覚すれば少しだけ寛容になれるのまとめ
今日『寛容さとは?|不寛容さを自覚すれば少しだけ寛容になれる』と題して、寛容さについて考えました。
寛容さとは?
行定監督が言われたのは、『僕がしゃべったことを田島先生が「でもね」とおっしゃることでひとつの1パッケージで僕は非常に助かった』ということです。
行定監督は、『びびってましたけど助かった』おしゃっていました。
つまり、自分が言ったことが世間に対してどんな影響を与えるかわからないと思うと、怖くて下手なことは言えないと思っていたのでしょう。しかし、そこで反対意見を言ってくれる人がいたおかげで自分の意見を鵜呑みにするのではなく、ちゃんと反対の立場の意見も聞いた上で選択出来るという状況になることがありがたいということだろうと思いました。
この世界は1セット
会話は、話をする人と聞く人で1セットです。
聞く人がいなければ話すことは出来ません。
買う人と売る人で商売は1セットです。
やはりどちらかだけでは成り立ちません。
どんなに良い商品でも求めている人がいなければ商売にはなりませんよね。
不寛容さを自覚すれば少しだけ寛容になれる
人間は無自覚に不寛容なんです。
自分が正しいと思いがちです。
それが許されていることがあるということは、それを寛容さで受け止めてくれている人がいるということです。
それを自覚すれば少しだけ寛容さが身につくというわけです。
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