自力と他力|いつでも来た球を打てる自分でいる
他力本願という言葉が『他人まかせ』という意味ではないことは、だいぶ浸透しているとは思いますが、他力とはどういう意味か?これはあまり浸透していないと思います。
おこがましいですが、解説をさせていただきます。
そして他力本願とともいきの関係についてご理解いただければと思います。
今日『自力と他力|いつでも来た球を打てる自分でいる』と題して、他力本願について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
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自力と他力|いつでも来た球を打てる自分でいる
自力と他力
『他力本願』という言葉が間違って使われることがあります。
他力本願は『他人まかせ』という意味ではありません。
他力本願は、もともと浄土宗の言葉で、他力とは『阿弥陀如来の力』のことを言います。
阿弥陀さまに念仏を唱える者を阿弥陀さまがすべて救いとってくださる。
救いとるとは、成仏させてくださるということです。
それが阿弥陀さまの本願であるということです。
他力本願とは、決して他人まかせという意味ではありません。
他力とは阿弥陀さまの本願力のことであり、言い換えると自然の力、大いなる存在の力ということです。
つまり、他力本願とは、自然の流れに身を任せるという意味です。
自力に対して他力ですから、自分の力でなんとかしようとすること。努力を否定しているのか?というと、もちろんそういうわけではないでしょう。
ただ、こうは言えないでしょうか。
人間は自然の力には勝てないと。
それは地震や台風のような災害だけを指しているわけではなくて、水が高きから低きに流れるといったシンプルなことも含めて、人間は自然の力には勝てないと思うのです。
自分でなんとかしようとしても自力の力などたかがしれているわけです。
自然の流れに乗る。
自然の力を借りる。
人間が自分の力でなんとかしようと思うことがおこがましいとさえいえるのです。
自分も自然の一部
自然とは何でしょう?
今目の前に起こっていることが自然だといえます。
以前に『人生で起こることはすべてシナリオ』というブログを書きました。
人生で起こることはすべてシナリオ
すべては決まっているということです。
生まれた家や両親や育った土地、学校、友人なんかは当たり前。今空気を吸うとか吐くとか、足が痒くて掻くとか掻かないとか。トイレに行くタイミングまで。すべては決まっています。
貧乏な家に生まれ頑張ってお金持ちになるというサクセスストーリーも決まっているし、頑張っても貧乏なままということも決まっています。
頑張ったから成功したのではなくて、頑張って成功することも決まっているというわけです。
ということは、頑張っても成功しないことも決まっていて、じゃ頑張らなくてもいいじゃないかと思うかもしれませんが、頑張ることも決まっているんです。
すべてが決まっているシナリオが『自然』なんです。
そして決まっているなら頑張らなくても一緒か?というと頑張ることも決まっている。
ただその流れに乗ればいい。
それに逆らうのが自力です。
自分の力で人生をなんとかしようとしているのです。
自分の力で頑張ってなんとかしようとすることが悪いわけではありません。
わかりにくいと思いますが、自然とは自分の本音という意味です。
本当の心に従うということです。
それに逆らって頭でこねくり回してなんとかしようとすることを自力といって否定しているのです。
阿弥陀さまの本願力とは、自分の心の奥底にある本音のことでもあります。
自分の中から湧き上がってくる思いです。
これは自然です。
人間も自然の一部。自分も自然の一部です。
それに従うことは他力なのです。
いつでも来た球を打てる自分でいる
そうすると、他力で生きるためには、自分の本音を聞くということが大切になります。
自分の本音を聞くために、普段から『自分に素直に正直に』生きること。
そして直感を大切にすること。
思ったことはすぐにやることが大切になります。
なぜ思ったことをすぐにやることが大切かというと。
すぐにやらないと、やらないことを正当化する理由を頭が考え出します。
これは自力です。自然に逆らっています。
速くやることが目的ではなく、考えないことが目的です。
普段から目の前にTDリストをぶら下げて生きないことをおすすめします。
今日のことは今日のうちに。
今出来ることは今する。
後回しにしたことは、後回しに出来る程度のことだと割り切って忘れる。
忘れても大事なことならまた思い出します。
そうやって、いつでも来た球を打てる自分でいることです。
そうすることで自然の流れに、我々を生かしてやまない完璧な流れに誰もが乗れると。そう思っています。
自力と他力|いつでも来た球を打てる自分でいるのまとめ
今日『自力と他力|いつでも来た球を打てる自分でいる』と題して、他力本願について考えました。
自力と他力
他力とは阿弥陀さまの本願力のことであり、言い換えると自然の力、大いなる存在の力ということです。
つまり、他力本願とは、自然の流れに身を任せるという意味です。
自力に対して他力ですから、自分の力でなんとかしようとすること。努力を否定しているのか?というと、もちろんそういうわけではないでしょう。
ただ、こうは言えないでしょうか。
人間は自然の力には勝てないと。
自分も自然の一部
阿弥陀さまの本願力とは、自分の心の奥底にある本音のことでもあります。
自分の中から湧き上がってくる思いです。
これは自然です。
人間も自然の一部。自分も自然の一部です。
それに従うことは他力なのです。
いつでも来た球を打てる自分でいる
今日のことは今日のうちに。
今出来ることは今する。
後回しにしたことは、後回しに出来る程度のことだと割り切って忘れる。
忘れても大事なことならまた思い出します。
そうやって、いつでも来た球を打てる自分でいることです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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