畏敬の念を抱くとどうなるか?①|畏敬の念について説く
『畏敬の念を抱く』という言葉があります。
今日の質問は畏敬の念を抱くと視野は広がるのか?
畏敬の念を抱くだけではダメだと考えます。畏敬の念を抱くとはどういう状態になることなのか?
それがわかっていなければ、畏敬の念を抱くだけでは視野は広がらないと思います。
今日は『畏敬の念を抱くとどうなるか?|畏敬の念について説く』と題して、畏敬の念を抱くとどうなるか?について考えます。
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畏敬の念を抱くとどうなるか?|畏敬の念について説く
畏敬の念を抱くとどうなるか?
畏敬の念を抱くと、視野が広くなる?
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13270473743)
みなさん、ごきげんよう。
今日もよろしくお願いします。
『畏敬(いけい)の念を抱く』とは、畏れ(おそれ)敬う気持ちを神や大自然などの強大な権力者や崇高な存在に対して抱くということです。
簡単にいえば自然や宇宙の偉大さを敬うということです。
では、畏敬の念を抱けば、誰でも視野は広がるでしょうか?
畏敬の念を抱くとは、たしかに自然や宇宙といった大いなる存在を畏れ敬う気持ちですが、単に自然や宇宙の偉大さを敬うだけでは視野は広がらないと思います。
『畏敬の念を抱く』という言葉をどう解釈するか?です。
言葉をどう解釈するか?とは、それがどんな状態か?をどう解釈するか?ということです。
『私』がどんな状態で在ると大自然、大宇宙を畏れ敬うという状態になるのか?
それを、どう解釈しているのか?それ次第だということです。
言葉はひとつです。
ですが、解釈は聞いた人の数だけあります。
なので、畏敬の念を抱けば視野は広がると僕も思います。
ただ、その言葉の解釈次第なので、畏敬の念を抱けば、誰もが視野が広がるとは言えないと言わざるを得ないのです。
畏敬の念について説く
あくまでも僕の考え方でしかありませんが、『私』が畏敬の念を抱いても視野は広がらないと思っています。
『私』が畏敬の念を抱けば視野が広がるのであれば、太古の昔から、人類は形は違えど畏敬の念を抱いて暮らしてきたのではないでしょうか?
多神教でも一神教でも、神を大いなる存在として人々は敬ってきたはずです。それを信仰することも畏敬の念には代わりありません。
それで視野が広がるのであれば、今更こんな質問はないと思うし、『畏敬の念を抱く』という言葉すら存在しないと思うのです。
念の為に申し添えますが、ここで言う視野が広がるとはいわゆる『悟り』のことだと思って書いています。
この世界の真理に目覚めることを視野が広がるということだと解釈してブログを進めています。
『畏敬の念を抱く』ことが視野を広げるために必要なことだと思いますが、それは『私』が畏敬の念を抱くことではないと思うのです。
どういうことか?というと。
『私』”が”ではないということです。
『私』という何者でもない者が、大自然や大宇宙という大いなる存在を畏れ敬うことではないのです。
『私』”も”大自然や大宇宙の一部であるということへの気づきが必要だと考えます。
つまり、『私』のことを含めた、この世界そのものを『私』が畏れ敬うことが畏敬の念だと思うのです。
畏敬の念を知るには己の実践のみ
ここで、ことさらそれを言われなくても、何かしらの本にそう書いてあるのを読んで知識として知っているという人もいるでしょう。
ですが、『畏敬の念のを抱く』という言葉の解釈と同じで、これは知識の話ではないのです。
同じ言葉を聞いても解釈は人それぞれです。それがどんな状態なのか?をどう解釈するか?も人それぞれなのです。
なので、いくら言葉で説明しても言葉では言い表すことができず。もし言葉でそのすべてを説明できたとしても、そのまま受け取ってもらえるものではないのです。
なので、出来ることは、『私』のことを含めた、この世界そのものを畏れ敬うことが『畏敬の念』だと言葉でお伝えするのみなのです。
それがどんな状態であるか?をどう解釈するかは、読者に委ねるより他ないのです。
そして、これを確認する術は、己が実践するしかありません。
知識をいくら蓄えたとしても、それには実体はありません。
これが畏敬の念だとわかるのは、己の実践でのみ確認が出来るのです。
長くなるので、明日もこの続きを書きます。
では、ごきげんよう。さようなら。
畏敬の念を抱くとどうなるか?|畏敬の念について説くのまとめ
今日は『畏敬の念を抱くとどうなるか?|畏敬の念について説く』と題して、畏敬の念を抱くとどうなるか?について考えました。
畏敬の念を抱くとどうなるか?
畏敬の念を抱くとは、たしかに自然や宇宙といった大いなる存在を畏れ敬う気持ちですが、単に自然や宇宙の偉大さを敬うだけでは視野は広がらないと思います。
『畏敬の念を抱く』という言葉をどう解釈するか?です。
言葉をどう解釈するか?とは、それがどんな状態か?をどう解釈するか?ということです。
『私』がどんな状態で在ると大自然、大宇宙を畏れ敬うという状態になるのか?
それを、どう解釈しているのか?それ次第だということです。
畏敬の念について説く
『私』という何者でもない者が、大自然や大宇宙という大いなる存在を畏れ敬うことではないのです。
『私』”も”大自然や大宇宙の一部であるということへの気づきが必要だと考えます。
つまり、『私』のことを含めた、この世界そのものを『私』が畏れ敬うことが畏敬の念だと思うのです。
畏敬の念を知るには己の実践のみ
出来ることは、『私』のことを含めた、この世界そのものを畏れ敬うことが『畏敬の念』だと言葉でお伝えするのみなのです。
それがどんな状態であるか?をどう解釈するかは、読者に委ねるより他ないのです。
そして、これを確認する術は、己が実践するしかありません。
知識をいくら蓄えたとしても、それには実体はありません。
これが畏敬の念だとわかるのは、己の実践でのみ確認が出来るのです。
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