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畏敬の念を抱くとどうなるか?②|畏れ敬うとは共に生きること 

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『畏敬の念を抱く』について、昨日の続きを書いていきます。

とても深い話なので、ぜひ読んでいただければと思います。

今日は『畏敬の念を抱くとどうなるか?②|畏れ敬うとは共に生きること 』と題して、畏敬の念を抱くとどうなるか?について考えます。

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

畏敬の念を抱くとどうなるか?②|畏れ敬うとは共に生きること 

大宇宙はどこか?大自然はどこか?

畏敬の念を抱くと、視野が広くなる?

yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13270473743

 

みなさん、ごきげんよう。

今日もよろしくお願いします。

こちらは昨日のブログです。

畏敬の念を抱くとどうなるか?①|畏敬の念について説く

 

昨日の続きです。

大宇宙はどこか?大自然はどこか?

それは『ここ』です。

宇宙に行きたいと夢を見ることがあると思います。

その時に思っている宇宙というのは、地球の外にある宇宙のことです。

今ここではなく、その外にある宇宙のこと。

これは、もしかすると人間が今ここで幸せになれなくなったキッカケなのかもしれないと書きながら思いました。

確かにそこも宇宙ですが、ここも宇宙でしょう。私も宇宙です。

もし、大宇宙を大いなる存在として畏れ敬うのなら、私もそして私が生きている今ここのことも畏れ敬わなくてはおかしいのです。

どんな場所も同じ宇宙の中

突然、話が身近な話になりますが、職場や学校で嫌なことがあって行きたくないと思うことがあると思います。

嫌な場所に無理して行くことはないというのが今の風潮です。

これを否定するつもりはありませんし、この世界のシステムを理解した上で別の場所で頑張るのなら、それもひとつの選択だと思います。

今日の宇宙論で行けば、嫌な場所も安心できる場所も同じ宇宙の中にあります。

この世界のシステムというのは、同じ場所を自分の解釈次第でまったく違う場所に感じているというシステムです。

どういうことか?というと、嫌な場所も安心できる場所も同じ宇宙の中にあります。それは喩えるなら同じ部屋の中の別の場所ということです。

例えば、同じ部屋の中の机の上とタンスの中という感じです。

好きな場所はキレイにしたり、物を揃えたりしますが、それほど好きでなかったり、関心がないところはそれほど気にかけません。

そうすると、好きな場所はいつもホコリもなくてキレイですが、関心がないところはうっすらとホコリが溜まって汚くなってしまいます。

そのうちに見るのが嫌になったりします。(笑)

嫌な場所と安心出来る場所の違いというのは、喩えるとそんな感じです。

このとき、自分は何もしなくても汚い場所を誰かがキレイにしてくれますか?

あるいは、祈っていれば汚い場所は徐々にキレイになっていきますか?

自分が関心を持って、その場所を好きにならなければその場所は、いつまでもそのままです。

嫌な場所に行かないというのは、その場所に関心を持たず掃除をすることもなく、別の場所に関心を持つようなものということです。

一見、違う場所に行って汚いものを見ずにすんで楽になった気になるだけで、実は汚い場所は汚いままなのです。

同じ部屋にいるので、違う場所を見ていても汚いところは気になったままです。

だから、別の場所に行って、風景は変わったようでも実は本質は変わっていないということです。

いつかは、汚いところを掃除をして、好きにならないと問題は解決しないということなのです。

畏れ敬うとは共に生きること 

時に人間は自然の力に為す術もないということがあります。

ただただ、受け入れるしかないということがあります。

ですが、自然にとっては、私たち人間が自然であり、人間が自然を破壊していくことを為す術もなく受け入れているのです。

人に喩えても同じです。

『私』にとって、あなたは自然です。

好きな人も嫌いな人も同じ自然の一部です。

大自然を畏れ敬うのなら好きな人も嫌いな人も畏れ敬わなければいけないのです。

昨日も書いたことですが、畏れ敬うと言っても、何者でもない『私』が大いなる存在を畏れ敬うのではないのです。

『私』も大いなる存在で在るということです。

対等なのです。

いえ、対等というよりは、宇宙という同じひとつの生命だという方が正確に表現できていると思います。

なので、畏れ敬うとは、ただただ畏れ敬うのではなくて、自分のことのように扱うということです。

自分のことを大切にするのと同様に他人のことを大切に扱うということです。

もっというならば人だけではなくて、この世界に在るすべての人モノ出来事を自分のことのように大切にするということです。

大事なことは自分のことを置き去りにしないこと。

自分が我慢をすることが受け入れるということではありません。

地震や台風が来るときにただ何もしないで来るのを待ちますか?

地震や台風のことをよく研究して対策を立てます。

そして出来ることをやって、結果は受け入れるということです。

そして、自然の恵みをいただくことが出来るのです。

私たちは自然と対等であり同じ生命だということ。

そうやって共に生きることが畏れ敬うということです。

 

では、ごきげんよう。さようなら。

畏敬の念を抱くとどうなるか?|畏敬の念について説くのまとめ

今日は『畏敬の念を抱くとどうなるか?②|畏れ敬うとは共に生きること 』と題して、畏敬の念を抱くとどうなるか?について考えました。

大宇宙はどこか?大自然はどこか?  
大宇宙はどこか?大自然はどこか?
それは『ここ』です。
宇宙に行きたいと夢を見ることがあると思います。
その時に思っている宇宙というのは、地球の外にある宇宙のことです。
今ここではなく、その外にある宇宙のこと。
確かにそこも宇宙ですが、ここも宇宙でしょう。私も宇宙です。

どんな場所も同じ宇宙の中 
嫌な場所も安心できる場所も同じ宇宙の中にあります。それは喩えるなら同じ部屋の中の別の場所ということです。
例えば、同じ部屋の中の机の上とタンスの中という感じです。
好きな場所はキレイにしたり、物を揃えたりしますが、それほど好きでなかったり、関心がないところはそれほど気にかけません。
そうすると、好きな場所はいつもホコリもなくてキレイですが、関心がないところはうっすらとホコリが溜まって汚くなってしまいます。
そのうちに見るのが嫌になったりします。(笑)
嫌な場所と安心出来る場所の違いというのは、喩えるとそんな感じです。

畏れ敬うとは共に生きること  
地震や台風が来るときにただ何もしないで来るのを待ちますか?
地震や台風のことをよく研究して対策を立てます。
そして出来ることをやって、結果は受け入れるということです。
そして、自然の恵みをいただくことが出来るのです。
私たちは自然と対等であり同じ生命だということ。
そうやって共に生きることが畏れ敬うということです。

今日も読んでいただきありがとうございます。

 

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