他人を見下す人について|他を動かす力
自分の自信のなさ、力不足を隠すために他人を見下す人がいます。
実は見下されるのが怖いのです。
それを解決する心のあり方についてです。
今日は『他人を見下す人について|他を動かす力』と題して、他人を見下す人について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
他人を見下す人について|他を動かす力
他人を見下す人について
話を聞いて欲しいです。
自分はかなり心が乱れるほうだと思います。他人に何かを指摘される度に自分はどんだけダメなやつなんだとか、そういうのを思ってしまうタイプです。
そこで、自分よりなにか劣っている人を見ると心の中で見下してしまいます。決して声に出してはいいません。それが精神安定剤になっているんだとは思いますが、やはり人を見下すという行為は良くないと思うため、辞めるべきでしょうか。ただそれを辞めてしまうと、自分を保てない気がします。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10270448415)
みなさん、ごきげんよう。
今日もよろしくお願いします。
劣等感と優越感は裏表の関係です。
自分に自信がないから、それが劣等感となって、その劣等感を抑えるために自分より劣っている人を探して優越感を持とうとするのです。
見下されるのが怖いのは、人を見下したときの自分の醜い心を知っているからです。
そういう心で自分が見下されていると思ったら耐えられないのです。
それがさらに強い劣等感になって、ますます優越感を求めて自分より劣っている人を探す。
止めることが出来ない悪循環です。
一旦立ち止まって考えてみてください。完璧な人間はいません。
誰でもミスをしたり、苦手なことがあったり、弱い部分があります。
自分にも他人にもあります。
誰にでも弱い部分やダメな部分があるんだと許せたら見下さなくなります。
そうすると、これまで他人から見下されたように感じた言葉や振る舞いが見下しているように感じなくなります。
実は、相手の言葉や振る舞いを見下していると感じていたのは自分だったのです。
強い劣等感が、相手の言葉や振る舞いををそう解釈させていたのです。
精神安定剤を手放すことは勇気がいると思います。
ですが、精神安定剤を手放すことが、他人が自分を見下す恐怖から、自分を解放する唯一の方法です。
太宰治の『親友交歓』
少し前にも紹介しまいしたが、太宰治の『親友交歓』という短編小説があります。
罹災(災害をうけること。被災。)した文学者が、田舎に引っ込んで、隠遁生活をしていると、昔の親友が訪ねてくるというお話です。
その親友は、昔から横柄で無礼な男だったのですが、このときも、昼間から酒を出させ、文学者の乳房を呼びつけてお酌をさせたり、乱暴な言葉づかいで偉ぶったりするのです。
『お前も東京では活躍していたようだが、今は失敗して田舎に逃げ帰ってきたのだろ?俺も東京時代はかなり活躍したものだ。今でもここらでは俺の名をいえば知らぬ者はいないよ』といった調子です。
こういう話を聞かされる度に文学者は、辟易するのです。
『本当に無礼な奴だ』。
しかし、昔から文学者は自分の言いたいことが言えないタイプで、いつも苦々しい思いをしていたのです。
いよいよ帰る間際になって、文学者がひと言言ってやりたいと思っていたら、その男は文学者に向かってこう言ったのです。
『威張るな』。
文学者が言おうとした言葉を親友から言われたのです。
長年、文学者が抱いていた、親友への思いは、実は親友が文学者へ抱いていた思いだったというわけです。
文学者は一方的に見下されていたと思っていたのに、親友も文学者に見下されていたと思っていたのです。
自分が見下される恐怖から知らず識らずのうちに他人を見下しているということがあります。
自分を弱いと思っているから、自分を守っていただけだと思っていたのに、それが相手からするととても攻撃的だったということがあります。
なので、よくよく客観的に自分のことを見ないといけないのです。
他を動かす力
三上和志著『人間の底』の中に『他を動かす力』というのがあります。
『他を動かす』とは、人を動かすという意味です。
こうして欲しい、ああして欲しいと言わなくても周りが勝手に動き出すようになる振る舞いや言動ということです。
他を動かす力のひとつ目は、『実践すること』。やってみせるということです。
ふたつ目が『実践した話をすること』。『他人がこうしていた』という話よりも『自分がこうした』という話の方が人は動くということです。
そして、3つ目が『お詫びする』ことだといいます。
本書には『身を捨てて、捧げて、尚捧げ方が足りないもののようにお詫びする』とあります。
身を捨てて、捧げてとは、自分の力を尽くしてという意味です。
自分の力を尽くして、それでも尚『お詫び』するのか?と思われると思いますが、これが一番『他を動かす』のです。
たとえば、職場で、まだ未熟な後輩が自分のこともままならないのに、先輩である自分の助けになろうとしている。しかも、自分の力が足りなくて、まだまだ役に立たずに申し訳ないという姿でいる。
こんな後輩をもった経験がある人も少なからずいると思います。
こういう後輩はとても健気で可愛く思いませんでしょうか?
なんとか、この後輩が一人前になるように、先輩として助けてやろうと思います。
『人間の底』で書かれている『お詫び』とはこういうお詫びです。
または親になったとき、子が成長するように面倒を見るのは当たり前で、そのときに面倒みてやっているという態度でいる親と。
十分に可愛がっているのに、もっとしてやりたいけどまだまだ甲斐性がなくて、してやれることが少なくて『ごめん』という気持ちでいる親と。
子はどっちの親の言うことをよく聞くでしょうか?
『お詫び』は劣等感からくるものではないと思うのです。
自分が出来る限り力を尽くしているからこそ『お詫び』出来るのです。
人は、見下されたり、見下している間は周りとはうまくいかないのです。
誰も自分のために動いてくれないし、自分もまた他人のために動こうと思いません。
根っこのところに、この『お詫び』という精神があることがとても大切だと思うのです。
では、ごきげんよう。さようなら。
他人を見下す人について|他を動かす力のまとめ
今日は『他人を見下す人について|他を動かす力』と題して、他人を見下す人について考えました。
他人を見下す人について
見下されるのが怖いのは、人を見下したときの自分の醜い心を知っているからです。
そういう心で自分が見下されていると思ったら耐えられないのです。
それがさらに強い劣等感になって、ますます優越感を求めて自分より劣っている人を探す。
止めることが出来ない悪循環です。
太宰治の『親友交歓』
自分が見下される恐怖から知らず識らずのうちに他人を見下しているということがあります。
自分を弱いと思っているから、自分を守っていただけだと思っていたのに、それが相手からするととても攻撃的だったということがあります。
なので、よくよく客観的に自分のことを見ないといけないのです。
他を動かす力
『お詫び』は劣等感からくるものではないと思うのです。
自分が出来る限り力を尽くしているからこそ『お詫び』出来るのです。
人は、見下されたり、見下している間は周りとはうまくいかないのです。
誰も自分のために動いてくれないし、自分もまた他人のために動こうと思いません。
根っこのところに、この『お詫び』という精神があることがとても大切だと思うのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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