無常の中に常を見る|苦しみの中に少しだけ差す光
すべてが無常なのですから、それは言い換えれば無常が常ということです。
人生は苦ですが、苦の中に幸せや喜びがあります。
それに気づく生き方の提案なのです。
今日は『無常の中に常を見る|苦しみの中に少しだけ差す光』と題して、無常の中に常を見るについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
無常の中に常を見る|苦しみの中に少しだけ差す光
無常だから苦がある
みなさん、ごきげんよう。
今日もよろしくお願いします。
この世界に在るモノは無常です。(諸行無常)
諸行無常とは
世のすべてのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ。
だから苦があるのです。
もしも『私』が永遠に存在するのなら苦というものはないのかもしれません。
ですが、『私』はいつかは消滅(死)します。
『私』が所有しているモノも、いつかは無くなったり、奪われたり、盗まれたりします。
やはり無常です。
もし、一度所有したものが永遠に『私』のモノならば苦にはならないわけです。
もし、人間が不老不死であれば、苦はないでしょう。
失敗しても何度でもやり直せばいいし、夢はいつか叶えればいいし、欲しいモノはいつか手に入れればいいわけです。
時間切れという概念もなくなるかもしれません。
いえ、時間という概念すら必要なくなるかもしれません。
この世界は無常だから苦があるのです。
苦しみの中に少しだけ差す光
この世界に在るモノは無常です。
この世界は無常だから苦しみがあります。
ですが、これは言い換えると、無常であることが常だということです。
誰ひとりとして、何ひとつとして無常でないモノはないわけですから、それが普通といえるわけです。
ある人だけ永遠の命を持っているというのであれば、これは相当羨ましいし、嫉妬心も湧くでしょう。
ご安心ください。
すべての人の命には限りがあります。
皆、死を恐れています。
いつも言っていることですが,他人の心は目に見えませんから、何を思っているかわかりません。
なので、『私』だけが苦しいと錯覚をしてしまうのです。
何を思っているかは見えませんが、人は必ず死ぬことは誰もが知っています。
だったら、『私』と同じように皆苦しんでいるはずです。
『私』だけが特別に苦しいわけではありません。
それがわかったからといって、何も変わりません。
無常が常になることはありませんし、苦しみも消えません。
『私』もいつかは消滅します。
しかし、少しだけ安心しませんか?、苦しみが少しだけ和らぎませんか?
受け入れられる程度に軽くなったような気がしませんか?
大切なことは、そのほんの少しの気づきだと思います。
苦しみの中にも、少しだけ差す光があることに気づくことです。
無常の中に常を見る
お釈迦さまは、『托鉢は貧しい人の家を回りなさい』と弟子たちにと説かれたというのは有名な話です。
弟子たちは、『貧しい家ではなく、お金持ちの家の間違いでは?』と聞き直したそうです。
弟子たちの質問に対して、お釈迦さまは次のように答えられました。
「今貧しさに苦しんでいる人たちは過去に施しをして来なかったため、その日の食べ物にも困っている。だからこそ、貧しい人々の家を回るのだ。」と。
物質的に貧しい人は、精神的にも貧しい心になっています。
無いモノを見る心になっているのです。
今在るモノの中から与えられるモノを見つける。在るモノを見る心を養うことを『人に施す』という行為によって養うのです。
無いと思っているときは在るを見る。
苦しいときは楽を見る。
無常の中に常を見るのです。
では、ごきげんよう。さようなら。
無常の中に常を見る|苦しみの中に少しだけ差す光のまとめ
今日は『無常の中に常を見る|苦しみの中に少しだけ差す光』と題して、無常の中に常を見るについて考えました。
無常だから苦がある
もしも『私』が永遠に存在するのなら苦というものはないのかもしれません。
ですが、『私』はいつかは消滅(死)します。
『私』が所有しているモノも、いつかは無くなったり、奪われたり、盗まれたりします。
やはり無常です。
もし、一度所有したものが永遠に『私』のモノならば苦にはならないわけです。
苦しみの中に少しだけ差す光
『私』だけが特別に苦しいわけではありません。
それがわかったからといって、何も変わりません。
しかし、少しだけ安心しませんか?、苦しみが少しだけ和らぎませんか?
受け入れられる程度に軽くなったような気がしませんか?
大切なことは、そのほんの少しの気づきだと思います。
苦しみの中にも、少しだけ差す光があることに気づくことです。
無常の中に常を見る
物質的に貧しい人は、精神的にも貧しい心になっています。
無いモノを見る心になっているのです。
今在るモノの中から与えられるモノを見つける。在るモノを見る心を養うことを『人に施す』という行為によって養うのです。
無いと思っているときは在るを見る。
苦しいときは楽を見る。
無常の中に常を見るのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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