痛みがあるから他人の痛みがわかる|受け入れるべき痛みがある

今日は痛みについて考えます。
誰でも痛いのはイヤですよね。
死ぬより怖いのは痛みだと癌で亡くなった以前のパートナーから聞かされたことがあります。
しかし、痛みを感じることが出来るから、他人の痛みが分かり思いやることが出来るのも事実。
そういう意味では身体の痛みも心の痛みもその区別はありません。
人間には受け入れるべき痛みが存在するのではないかと思うのです。
今日は『痛みがあるから他人の痛みがわかる|受け入れるべき痛みがある』と題して、痛みについて考えます。
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痛みがあるから他人の痛みがわかる|受け入れるべき痛みがある
今日の話を書くきっかけは2015年にフジテレビ系列で放送された西島秀俊主演の『無痛〜診える眼〜』を観たからです。
無痛〜診える眼〜
原作小説は、現代の医療制度の矛盾を突きながら、責任能力の有無によって心神喪失者・心神耗弱者の罪を、罰しない、あるいは軽減することを定めた刑法39条の是非をも問う社会派ミステリー。主人公の為頼英介(ためより・えいすけ)は、一見うだつの上がらない中年の開業医だが、実は医師として驚くべき能力を持っている。人間を外側から見て、医学的徴候の診断だけで、その人間の健康状態や病気の進行状況を読み取ることができるのだ。ある事件をきっかけに警察に協力するようになった為頼は、天才的な観察眼と経験の蓄積によって事件を解決に導く、いわば医者版探偵とも言える人物だ。今回の連続ドラマ化にあたっては、原作の魅力はそのままに、ドラマオリジナルのストーリーで、1話完結の事件解決物語を描き出していく。
タイトルの「無痛」とは、身体的にも精神的にも「痛みを感じない」ということ。一見無敵にも思える状態であるが、痛みを感じないということは、自分の身に差し迫った危険を察知することもできず、身を守ることもできないということであり、きわめて危険な諸刃の剣とも言える。「痛み」をひとつのキーワードに、「神の診察眼」をもつ為頼の活躍を描く!引用:https://www.fujitv.co.jp/b_hp/mutsu/index.html
受け入れるべき痛みがある
痛みを感じないということは、恐怖がないということです。
恐怖がないなんてそれだけを聞けば、すごいことだし、それは楽だろうと夢のような話かもしれません。
しかし、ドラマの紹介でもあるように痛みを感じないということは、自分の身に差し迫った危険を察知することもできず、身を守ることもできないということであり、きわめて危険な諸刃の剣です。
これは身体的な話ですが、痛みを感じないということは、自分の言葉や行動が他人を傷つけたとしても、それに対して何も感じないということでもあります。
心も無痛だということです。
ドラマ『無痛〜診える眼〜』の中に『受け入れるべき痛みが人間にはあるのかもしれません』という言葉が出てきます。
それも含めて人間の人生であると。
痛みはサイン
痛みをたくさん感じることは弱く苦しいことかもしれませんが、その分他人の痛みを理解出来る優しい人になる可能性があります。
痛みを感じないのは強いかもしれませんが、他人の痛みを理解出来ない無情な人になるかもしれません。
痛みは取り除けばいいと単純に言えるものではありません。
痛みを感じることでしか他人の痛みを理解する方法はありませんし、自分の心の痛みについても痛みを表面的な痛みとしてしか捉えることが出来ないのであれば、痛くて苦しい思いをしていることが無駄な時間になってしまいます。
他人の痛みも自分の痛みも、身体の痛みも心の痛みも同じだと思います。
『自分を見て、気づいて』のサインです。
腰が痛いのは腰が疲れていることに気づいて欲しいサインです。
昔から”手当”と言われるように手を当てるだけで痛みが和らぐことがあります。
これは気づいてもらったことで痛みが和らいていると考えています。
心も同じです。
自分の淋しさや苦しみに気づいて欲しい。それが痛みとなって表れているのです。
痛みを感じることが出来るということは自分や他人の淋しさや苦しみに気づけるということなのです。
痛みの奥底にある心の叫びに耳を傾けるチャンスなのです。
痛みを受け入れること
痛みを痛みとして受け入れることはとても大切なことです。
たくさんの痛みを経験していたとしても、その痛みを誰もが受け入れているとは限りません。
表面的な痛みだけを感じ、苦しみ嫌い、自分が苦しいのは他人のせいだとして、痛みと向き合っていない場合、痛みの本質である心の声を受け入れられていない可能性があります。
その場合、他人の痛みも自分の痛みも理解出来ていません。
それでは痛い時間が無駄になってしまいます。
せっかく痛い思いをしているのですから、痛みから何かを得て欲しいと思います。
そのためには痛みと向き合うこと。しっかりと痛みを味合うことも必要なのです。
追伸
痛みで苦しんでいる人も見ましたし、自分自身も痛みで苦しんだことがあります。
痛みを受け入れると言っても痛いことが必要だとは言えません。
痛みなんてないほうがいいに決まっています。
しかし、ドラマ『無痛〜診える眼〜』の言葉にもあるように、それも含めて人間の人生なのです。
『私が痛みで痛みが私だ』という言葉も哲学的で印象深かったです。
痛みなんてないほうがいい。しかしそれでも痛みがあるのは、そこから気づくべきことがあるというこの世界の理(ことわり)なのだと思います。
痛みがあるから他人の痛みがわかる|受け入れるべき痛みがあるのまとめ
今日は『痛みがあるから他人の痛みがわかる|受け入れるべき痛みがある』と題して、痛みについて考えました。
受け入れるべき痛みがある
痛みも含めて人間の人生である。
痛みはサイン
痛みは『自分を見て、気づいて』のサインです。
痛みを受け入れること
表面的な痛みだけを感じ、苦しみ嫌い、自分が苦しいのは他人のせいだとして、痛みと向き合っていない場合、痛みの本質である心の声を受け入れられていない可能性があります。しっかりと痛みを味合うことも必要なのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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