連帯責任について|One for all All for one
連帯責任について考えます。
連帯責任が良いか悪いか?というより、連帯責任があることで良いこともあるし、悪いこともあるし。
連帯責任がないことで良いこともあるし、悪いこともあるということだと思います。
今日は『連帯責任について|One for all All for one』と題して、連帯責任について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
連帯責任について|One for all All for one
連帯責任について
くだらない質問です。
皆様は「連帯責任」について
どう思いますか?
私はこの言葉や実施してる学校、部活や会社が嫌いです。
周りに迷惑をかけないという意識を持たせルールからはみ出たりする人をいなくさせたり、ノルマをみんなでクリアしていくためにあるというのはわかります。
が、しかし
社会というものは必ず
真面目な人、サボる人、はみ出す人
それらがいて成り立つものではないですか?
私は責任は問題を起こした人だけがとればいいと思っています。組織の評判や印象に関わることだとは思いますが連帯責任で全員に罰を与えたとしても何か変わると思いますか?
色んな意見の人がいると思うので
誰の意見も否定はしませんが
攻撃手になコメントはお控えぐださい。
連帯責任を取らされた人
連帯責任で周りに迷惑をかけてしまった人
色んな人の話が聞けたら幸いです
よろしくお願い致します
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14272059904)
みなさん、ごきげんよう。
今日もよろしくお願いします。
連帯責任が当たり前だった時代からこんな風に思う人はいたと思います。
『あいつのせいで、なんで俺までケツバット』みたいな。
あるにはあったけど。文句を言いながらも受け入れてたし、そうならないように弱い人やミスしそうな人をフォローしようという思いを同時に持っていたと思います。
質問者さまがおっしゃる通り、真面目な人、サボる人、はみ出す人、それらがいて社会は成り立っています。
だからこそ、連帯責任というシステムが出来たのだと思います。
責任をとらせるだけなら、ミスした人、サボった人だけでいいのですが、これを未然に防ごうと思うと、全体の力を使った方が有効な場合があります。
一人がミスをすると、自分も責めを追うと思うから、弱い人を助けようとするし、事前に指導できることはしようと思います。
サボる人に対しても抑止力にもなる。
連帯責任の本質は責任を取ることよりもミスやサボりを未然に防ぐことにあると思います。
One for all All for one
質問者さまは、そういうことを重々承知の上で連帯責任を否定しているのだと思います。
そういうお気持ちは今も昔も変わらずにありました。
ですが、理不尽と思いながらも連帯責任が機能していたからこそ、これまでの日本が・・・。
いえ。これまでの日本は30年くらい前に終わってしまった感があります。
『一人はみんなのために、みんなは一人のために』。(One for all All for one)というラグビーなどでチームワークを表す有名な言葉がありますが、別の解釈もあって『一人はみんなのために、みんなは勝利(ひとつの目的)のために』という解釈があります。
昔の人が文句を言いながらでも連帯責任を受け入れていたのは、それが全体のため日本のためになると信じていたからではないかと思います。
そう教育されたというのもあるでしょう。ですが、教育した人を教育した人もいて、その始まりは『一人はみんなのために、みんなは御国のために』という精神があったのではないか?と思います。
実は、One for all All for oneが精神論として根付いているのは日本だけなんだそうです。
日本には同じ意味の言葉が古くからあります。
石田三成の家紋とも言われている『大一大万大吉』です。(だいいち・だいまん・だいきち)
その意味は『一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる』というものです。
『ひとりがみんなのために、みんなは全体のために』とは、古くから日本人が大事にしていた精神なのです。
今は個を尊重する時代で、誰かのミスを全体の責任にするような連帯責任というシステムはほとんどの社会で通用しなくなっています。
日本国憲法でも原則的に否定されており、ごくごく例外的な場合(共同不法行為、連帯債務、選挙における連座制など)しか認められないものです。
連帯責任といって縛るのは、今の時代許されないものですが、だから弱い者や能力のない者を見捨てていいというのは寂しい考え方だと思います。
今いるコミュニティでは強い存在でも別のコミュニティに入ると助けてもらわないとうやっていけないということはあると思うからです。
連帯責任がいるのではないか?と思う時
誤解のないように付け加えますが、何でも昔が良いと言っているのではありません。
昔は昔で悪いこともあったはずです。
昔だって、やったこともやらなかったこともすべて自分に返ってきたはずです。
戦争はそのひとつだったのではないでしょうか?
『やったこともやらなかったこともすべて自分に返ってくる』は、いつでも変わらない真理です。
弱い人やサボる人を放ったらかしにしておいて、全体の利益が下がったときに文句を言わないのならいいですが、きっとそんなことはないはずです。
なぜなら、選挙に行かずに政治家に文句だけ言う人が多いのが現実です。
自分は出来ることをせずに、失敗だけを責め立てる人が多いのです。
ですから、今を見て満足ならそれでいいし、不満なら己の生き方から変えていかないといけないと思うのです。
もし、社会には不満がある。でも自分は何もしたくないという考えをしているとしたら、それは少し虫が良すぎるのではないか?と思えてなりません。
なぜなら、自分も社会の一員だからです。
連帯責任というシステムがなくてもひとりひとりが全体のことを考えているのなら、何も全体で責任を取る必要はないと思います。
『ミスしたりサボった人だけが責任を取ればいい、自分は関係ない』と、言う人ばかりだと、逆に連帯責任がいるのではないか?と思ってしまいます。
では、ごきげんよう。さようなら。
連帯責任について|One for all All for oneのまとめ
今日は『連帯責任について|One for all All for one』と題して、連帯責任について考えました。
連帯責任について
一人がミスをすると、自分も責めを追うと思うから、弱い人を助けようとするし、事前に指導できることはしようと思います。
サボる人に対しても抑止力にもなる。
連帯責任の本質は責任を取ることよりもミスやサボりを未然に防ぐことにあると思います。
One for all All for one
One for all All for oneが精神論として根付いているのは日本だけなんだそうです。
日本には同じ意味の言葉が古くからあります。
石田三成の家紋とも言われている『大一大万大吉』です。(だいいち・だいまん・だいきち)
その意味は『一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる』というものです。
『ひとりがみんなのために、みんなは全体のために』とは、古くから日本人が大事にしていた精神なのです。
連帯責任がいるのではないか?と思う時
『やったこともやらなかったこともすべて自分に返ってくる』は、いつでも変わらない真理です。
弱い人やサボる人を放ったらかしにしておいて、全体の利益が下がったときに文句を言わないのならいいですが、きっとそんなことはないはずです。
なぜなら、選挙に行かずに政治家に文句だけ言う人が多いのが現実です。
自分は出来ることをせずに、失敗だけを責め立てる人が多いのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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