自分らしく生きる|『私』と『世界』がひとつになった生き方
自分らしく生きるとはどういう生き方か?
自分にも寄らず、相手にも寄らず、ひとつになる生き方です。
今日は『自分らしく生きる|『私』と『世界』がひとつになった生き方』と題して、自分らしく生きるについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
自分らしく生きる|『私』と『世界』がひとつになった生き方
自分らしく生きる
なによりも自分らしくいられることが1番なんですかね??女性も男性も。それを受け入れられるか受け入れられないかでも色々変わってきますよね??わたしはこれからもずっと自分らしくいたいと思う。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10270776265)
みなさん、ごきげんよう。
今日もよろしくお願いします。
自分らしく生きられるということは幸せなことだと思います。
人は一人では生きていけませんから、協調性という名の我慢をしないといけなことがほとんどです。
もし、そういう我慢をしなくてすむのなら、これほど自分らしいことはありませんが、そんなことはまずありません。
仮に自分がそのような形で自分らしく生きているとしたら、逆に他人に相当な我慢を強いていることになります。
他人に我慢を強いている自分を想像したときに、それは自分らしい姿とはいえず、いつ反発や裏切りがあるかと警戒する自分を想像します。
なので、他人に我慢を強いることは自分らしく生きることに反します。
だからといって、自分が我慢をすることではもちろんありません。
他人にも我慢をさせず、自分も我慢をせず、一番良いところがあるはずです。
それは小さい点のようなところをイメージしてしまいそうになりますが、実はそれは小さい点なのではなくて、全体という大きな点だと思います。バンとした大きな塊のようなものなのです。
感覚的な言葉でわかりにくいですが、『私』と相手がひとつになるところです。
こうでなければならいというものを自ら作らずに来たものに対して自分らしく対応して生きていくことだと思います。
来た球を打っている姿です。
『私』は世界を受け入れていない
因果応報。やったこともやらなかったことも、世界はすべてを『私』に返してきます。
やったらやったことが、やらなかったらやらなかったことの結果が返ってくるということです。
そして、それを受け入れると、世界と『私』はひとつになりますが、受け入れられないと、世界と『私』はひとつになりません。
受け入れるというのは、通常解釈されるような意味ではありません。
私が『私』であることを疑ったことがありますか?
おそらく、普通はないと思います。
私が『私』であることを疑っていない状態。疑う余地がない状態が『私』を受け入れている状態です。
喩え話ですが、ここにコップ一杯の水があります。
これを飲んだとき、水は『私』になります。理屈では飲んだ水が『私』の一部になったと理解していても、どこからどこが水で、どこからどこが『私』なのかわかりません。
もし、『右手の小指がその水です』と言われても、そんなこと受け入れられないでしょう?
逆に言えば、水が『私』になったことを受け入れているということです。
ですが、一度その水が排尿されたら、それはほんの数秒前まで『私』であったとしても、『私』だと受け入れられますか?
現実を『受け入れる』というような言い方をしますが、受け入れるとは本来それくらい深いことです。
つまり、起こったことは、最初からこなると決まっていたんだと。
こうしていたら、ああしていたらという感情など一切差し挟む余地がなく、『私』がその出来事をコントロール出来るなどという思い上がりも一切ないことを受け入れるといいます。
『私』が(自我)あるということは、世界があるということです。
『私』は世界を受け入れていないのです。
『私』と『世界』がひとつになった生き方
『受け入れる』を違う言葉に換えると『信じている』です。
『私』は世界を受け入れていないと書きましたが、その表現はコインの表裏のようなもので、この世界は信じた通りの世界でもあります。
何を言っているか?というと。
コップ一杯の水の話の通り、私は『私』が『私』と信じている分だけ私だし、世界は『私』が『世界』だと信じている分だけ世界ということです。
私も世界も『私』が信じたものだけが在るのです。
自分らしく生きるとは、『私』と『世界』がひとつになった生き方です。
イメージで言うなら、『来た球を打つ』っている状態です。
起こったことに、ただただ対応しているだけです。
そのとき『私』に世界をコントロールする余地はないのです。
女性でいうなら出産がそうだなと思いました。
人間でいえば生きること。そして死ぬこと。
そのとき、必ず『私』と『世界』がひとつです。
自分らしく生きるとは?それくらい深い意味があるといえるのです。
では、ごきげんよう。さようなら。
自分らしく生きる|『私』と『世界』がひとつになった生き方のまとめ
今日は『自分らしく生きる|『私』と『世界』がひとつになった生き方』と題して、自分らしく生きるについて考えました。
自分らしく生きる
他人にも我慢をさせず、自分も我慢をせず、一番良いところがあるはずです。
それは小さい点のようなところをイメージしてしまいそうになりますが、実はそれは小さい点なのではなくて、全体という大きな点だと思います。バンとした大きな塊のようなものなのです。
感覚的な言葉でわかりにくいですが、『私』と相手がひとつになるところです。
『私』は世界を受け入れていない
起こったことは、最初からこなると決まっていたんだと。
こうしていたら、ああしていたらという感情など一切差し挟む余地がなく、『私』がその出来事をコントロール出来るなどという思い上がりも一切ないことを受け入れるといいます。
『私』が(自我)あるということは、世界があるということです。
『私』は世界を受け入れていないのです。
『私』と『世界』がひとつになった生き方
私も世界も『私』が信じたものだけが在るのです。
自分らしく生きるとは、『私』と『世界』がひとつになった生き方です。
イメージで言うなら、『来た球を打つ』っている状態です。
起こったことに、ただただ対応しているだけです。
そのとき『私』に世界をコントロールする余地はないのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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