死んだらどうなるのか?|私はどこにいくのか?
死んだらどうなるのか?
私はどこにいくのか?
考えたくもないかもしれませんが?
死は誰にでも起こることですから無関心な人はいないと思います。
今日は『死んだらどうなるのか?|私はどこにいくのか?』と題して、死んだらどうなるのか?について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
死んだらどうなるのか?|私はどこにいくのか?
私はどこにいくのか?
この問いは、死んだら私はどこにいくのか?という意味の問いです。
ですが、この問いに対して自分なりの答えを持つことができると、生きることの問題も解決すると考えています。
なぜ生命保険が必要なのか?というと、恐らく多くの人は、遺された家族に経済的な負担をかけないためにと考えていると思います。
つまり、『私』がいなくなった後の世界のことを考えているということです。
それは死について真剣に考えているようで、本当のところ死はまだ遠くにあるのではないかと思います。
病気でも怪我でも死ぬかもしれないという体験をしたことがある人なら似たような気持ちを体験していると思いますが、本当に死を目前に意識したときに遺された家族のことをどれだけ考えられるでしょうか?
もし、考えているとしたら、それはまだ時間的、精神的に考える余裕?というと語弊がありますが、それしか当てはまる言葉を知らないのでご勘弁ください。ある意味余裕があると思うんです。
僕は脳出血を起こして一晩ホテルのベッドの中で我慢して、翌日の朝に救急車で運ばれたという経験があります。もちろん脳出血しているとは、その時はわかっていません。
我慢した理由は合宿セミナーの講師の仕事が次の日にあったからなんです。これはまだ死よりも、この世界のことを考える余裕があったんですね。苦しいんですが、それでもまだこの世界のことを考える余裕があったんです。
ですが、いよいよ翌朝、本当にこのままだと死ぬかもしれないと思ったとき、この世界のことを考える余裕はありませんでした。
本当に死を目前にしたとき、考えるのは『私はどうなるんだろう?』換言すると『私はどこにいくんだろう?』です。
『死ぬかもしれない』にも段階があって、少し遠くに感じている死ぬかもしれないから、本当に目前に死を感じるまで、『死ぬかもしれない』にもグラデーションのような濃淡があります。
本当に濃い『死ぬかもしれない』という段階に自分がいると感じたとき、遺されたこの世界のことは考えられない。これが本当だと思います。
考えるのは『私はどこにいくのか?』です。
生命の営みの中に生と死がある
さて、そんな経験もあったからか、そもそもそういうことに興味がある人間だったからか、死について勉強するようになりました。
勉強というと本を読んだり、人の話を聞いたりということをイメージすると思いますが、僕がした勉強というのは、生きていることと死とのつながりを意識することでした。
意識してそうしたというよりも結果としてそうなったのです。
最初の目的は『幸せになるためにどう生きるか?』です。
本を読んだり、You Tubeで覚者と言われる人の動画、お坊さん、スピリチュアルティーチャー、成功者の動画もたくさん観ました。
点のような知識を得るというよりも、その点がどのようにつながっているのか?その点と点がつながったときにひとつの『わかった』が起こりました。
日々の生活の中にもその点はあります。むしろ生活の中にこそあるのですが、思い込みで見えなくなっていることがほとんどです。
死を勉強したというよりも、生きるということの理、点を知っていき、その点がどうつながっているのかを意識していきました。その点の中に『死』もあった、ということです。
ですから、僕の中で生と死は別のものではありません。
生の中に死はあるし、死は生の中にあります。
陰と陽のような関係です。
陰陽図を見ると、陰の中に陽があり、陽の中に陰があります。
本来は、生きることの一部に死があるのです。
ただ、私たちは肉体の死のインパクトがあまりに強いので、死を特別視しているのです。
肉体の有る無しに関わらず生命は永遠に続いている。
生命の営みの中に生と死があるのではないか?そう考えています。
私はどこにも行かない
さて、ここまで読むと、『私』という固有の生命があるという印象を与えてしまったと思いますが、僕はそう考えていません。
生命はひとつしかありません。
その生命とは、この世界のことです。
すべての人、動植物、すべてのモノ、すべての物質、目に見えない思考や感情、出来事。
とにかくありとあらゆるモノ、森羅万象でこの世界は出来ています。
その塊が生命です。
自然と言い換えてもいいです。
『私』はその世界の一部です。
肉体があるから『私』はまるで世界から切り離された存在のように認識していますが、それはそう解釈しているだけで、世界の一部でなかったことは、かつて一度もありません。
もちろん生死を問わずです。
人間として生きている間は肉体があり、脳があるので、脳の機能として、『私』を認識していると考えています。
肉体が死んで脳が活動を停止すると、『私』は消え、そして世界も消えます。
消えるというより私と世界は一体になります。
生きている間に在ると思っていた固有の『私』が消えるのです。
ですが、それは無ではありません。でも世界があるわけではありません。
世界は『私』があるからあるのです。
脳が『私と世界』を創っているのです。
これですべての答えが見つかったとは思っていませんが、ここまで答えが成熟されると死は怖くありません。
『私はどこにも行かない』と自分なりの答えが見つかったからです。
追伸
僕はかつてパートナーを癌で亡くしていますが、彼女が言った強く印象に残っている言葉があります。
『死ぬのは怖くない。痛いのが怖いのよ』という言葉です。
本当に死を覚悟したとき、死は怖くないのだと思います。痛いのが怖いし嫌なのです。
痛みがないうちは死を怖がっていますが、痛みや苦しみがあるとき、今度は死のことを考えている余裕がなくなります。
それなのに遺される者は、その気持を理解することが出来ず、寝たきりでもいいから生きていて欲しいなどと考えます。
それが死んでいく者に対する優しさとか誠実さだと思いこんでいるのです。
ですが、彼女が死んでから気づきました。
彼女が死ぬ数ヶ月前、西洋医学では出来ることがないと言われ、東洋医学で治療してくれる病院に移りました。
その病院は痛み止めは出さないという方針でした。薬は悪だという考えです。
西洋医学に見放されたという思いがありましたので、痛みを我慢することを僕も彼女にすすめました。
そうすれば、まだ助かる可能性があると信じていたんです。
僕はです。(今考えると)
彼女は遺される僕のために痛みに耐えてくれていたんだと思います。
生きるために痛みに耐えているのか?痛みを耐えるために生きているのか?
いざ、自分がそうなったら?と考えます。
死んだらどうなるのか?|私はどこにいくのか?のまとめ
今日は『死んだらどうなるのか?|私はどこにいくのか?』と題して、死んだらどうなるのか?について考えました。
私はどこにいくのか?
この問いは、死んだら私はどこにいくのか?という意味の問いです。
ですが、この問いに対して自分なりの答えを持つことができると、生きることの問題も解決すると考えています。
生命の営みの中に生と死がある
生の中に死はあるし、死は生の中にあります。
陰と陽のような関係です。
陰陽図を見ると、陰の中に陽があり、陽の中に陰があります。
本来は、生きることの一部に死があるのです。
私はどこにも行かない
生命はひとつしかありません。
その生命とは、この世界のことです。
すべての人、動植物、すべてのモノ、すべての物質、目に見えない思考や感情、出来事。
とにかくありとあらゆるモノ、森羅万象でこの世界は出来ています。
その塊が生命です。
自然と言い換えてもいいです。
『私』はその世界の一部です。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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