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他人の目を気にしなくていい理由

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他人の目を気にしない。

そう生きられたらいいと多くの人が思っていますが、なかなか出来ない。

それは他人の目を気にしないで生きたからといって、必ずしも幸せな人生が用意されているわけではないことに薄々気づいているからかもしれません。

ですが、それでも他人の目を気にせずに生きることを推奨します。

今日『他人の目を気にしなくていい理由』と題して、他人の目を気にしない生き方について考えます

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

他人の目を気にしなくていい理由

善い心が世間で言う善い行いと一致するとは限らない

『他人の目を気にせずに生きていく』。

こういう生き方が出来ると自分らしく生きられると言われることがあります。

そう思ってはいるけれど、なかなか出来ないと思っている人も多いのではないでしょうか?

しかし、他人の言うことを気にしなくていい理由は理論的にははっきりしています。

どういうことかというと、他人が見る目は、その人の行動や発言だけを捉えて言っているだけで、心までは見えていないということです。

その人がどんな意図があるのか、どんな思いを持っているのか、そんなことは他人にはわかりません。

たった1本のパンを盗んだ罪で19年間服役したジャン・ヴァルジャンは姉の子供たちのためにパンを盗みました。

レ・ミゼラブル(日本語訳では『ああ無情』)の話です。

しかし、他人が見ているのは『パンを盗んだ』というジャン・ヴァルジャンの行為だけです。

その盗んだパンで飢えた子どもたちを救いたいというジャン・ヴァルジャンの思いはわかっていません。

たとえジャン・ヴァルジャンがそう言ったとしてもその思いの深さや真剣さは、人によって理解の深さが違うでしょう。

また、19年間服役して、行く先々で冷遇され、人間不信と憎悪の塊であったジャン・ヴァルジャンが、自分を救ってくれた司教が大切にしていた銀の食器を今度は本当に盗んでしまいます。

次の朝、ジャン・ヴァルジャンは憲兵に捕まって司教のもとに連れて来られます。憲兵に対して司教は『これは私が彼に与えたものだ』といって、残りの2つも持っていくように言った司教の思いもまた憲兵にはわからないでしょう。

つまり、私たちが見たり聞いたりしているものは、ひとりの人間のほんの一部しかありません。

行動や発言を司っているのは心です。

思ったことが元になって、行動や発言をしています。

ですが、悪い行いをしたら悪い心かというと、ジャン・ヴァルジャンが子どもたちを救いたいという思いでパンを盗んでしまったように、善い心が世間で言う善い行いと一致するとは限らないのです。

 

自分の心をわかってあげられるのは自分だけ

他人の目を気にしていたら自分の心に逆らって生きることになります。

ジャン・ヴァルジャンが世間の目を気にしていたら、パンを盗まずに19年間服役することはありませんでした。

ですが、姉の子どもたちを飢えて死なせてしまい。自分を責めて後悔して生きていくことになったかもしれません。

どちらの道を選んでも苦しいこともあるし、またその中で良いこともあるでしょう。

どちらを選んでも人生はすべて自分が引き受けるしかないということだと思います。

他人の目を気にして自分の思いを控えめにして生きていくことが世間とうまくやれて、それが生きやすいと感じれば、それもいいと思います。

ただ、どちらの生き方をしても他人は『私』の心まではわかってくれません。

どんなに胸の内をさらけ出したとしても、それを聞いて『うんうん』と頷いてくれたとしても、だから相手が100%わかってくれたわけではありません。

自分の心をわかってあげられるのは自分だけなのです。

悪いことをしたとして、なぜ悪いことをしたのか。その本当の真意をわかっているのは自分だけです。

悪いことを推奨しているのではなくて、自分の善は他人にとっては悪の場合もあるし、自分にとっての悪が他人にとっては善の場合があるということです。

この世界で起こっていることは目に見えないところで起こっている

親鸞聖人の教えを伝えたと言われる歎異抄に『善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや』という言葉があります。

善人でも天国に行けるのだから、悪人はなおさら行けるという意味ですが、えっ!?逆じゃないのという感じですね。

『悪人でも天国に行ける。善人なら尚更だ』ならわかります。

なぜ、そうでないかというと、先ほど自分の善は他人にとっては悪で、自分にとっての悪が他人にとっては善だといいました。つまり悪人とはすべての人間、『私』たちのことなのです。

人間は我利我利亡者と言われます。

自分の利益や自分の儲けのことばかり考えているのが人間です。

頭では善い行いをしているつもりでも、その善い行いも自分でも気づかない心の奥底では自分の利益になるからしているのです。

ですから『私』たちはみな悪人なのです。

善人とは、それにまだ気づいていない人のことです。自分が心の奥底では自分勝手な思いでいることに気づいていない人のことです。

だから『善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや』なのです。

それに気づいていない人でさえ天国に行けるのだから、気づいている人は尚更天国に行けるのです。

他人の目を気にして生きているのは歎異抄でいうところの善人のようなものだと思います。

他人のためにということを言い訳にして自分を抑えて生きていて、それが自分に嘘をついていることにも気づいていないのです。

だから、悪人でいいから自分に素直に正直に生きましょうという論理ではありません。

ただ、自分に嘘をついて生きても誰も救われない。

なぜなら嘘で許されても、それは本当に許されたことにはならないからです。

この世界で起こっていることのほとんどは目に見えないところで起こっています。

『私』たちは、目に見えないところで幸せになったり、不幸せになったりしているのです。

物質至上主義的な世の中にあって、実は心がすべてを支配しているのです。

だから、他人の目を気にせずに自分に素直に正直に生きて欲しいのです。

他人の目を気にしなくていい理由のまとめ

今日『他人の目を気にしなくていい理由』と題して、他人の目を気にしない生き方について考えました。

善い心が世間で言う善い行いと一致するとは限らない 
他人が見る目は、その人の行動や発言だけを捉えて言っているだけで、心までは見えていないということです。
その人がどんな意図があるのか、どんな思いを持っているのか、そんなことは他人にはわかりません。
ジャン・ヴァルジャンが子どもたちを救いたいという思いでパンを盗んでしまったように、善い心が世間で言う善い行いと一致するとは限らないのです。

自分の心をわかってあげられるのは自分だけ 
人生はすべて自分が引き受けるしかないということだと思います。
他人の目を気にして自分の思いを控えめにして生きていくことが世間とうまくやれて、それが生きやすいと感じれば、それもいいと思います。
ただ、どちらの生き方をしても他人は『私』の心まではわかってくれません。

この世界で起こっていることは目に見えないところで起こっている 
『私』たちは、目に見えないところで幸せになったり、不幸せになったりしているのです。
物質至上主義的な世の中にあって、実は心がすべてを支配しているのです。
だから、他人の目を気にせずに自分に素直に正直に生きて欲しいのです。

今日も読んでいただきありがとうございます。

 

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