自分が嫌いで苦しい人に知って欲しい|衆水海に入りて一味なるが如し
なぜ、自分を嫌いになってしまうのか?
それを明らかにして、それは甚だ勘違いであるということを正信偈の教えから解説します。
今日は『自分が嫌いで苦しい人に知って欲しい|衆水海に入りて一味なるが如し』と題して、衆水海に入りて一味なるが如しについて解説します。
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自分が嫌いで苦しい人に知って欲しい|衆水海に入りて一味なるが如し
正信偈の教え
『凡聖逆謗、ひとしく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし」といいます。
これは親鸞聖人の正信偈にある教えです。
凡聖(ぼんしょう)の凡とは凡夫のこと。我々人間のことです。
聖とは聖人のこと。悟った人のこと。
逆謀(ぎゃくぼう)の逆とは、五逆罪といって、親を殺すような罪を犯した人。謗とは謗法罪(ほうぼうざい)、仏法を謗る(そしる)人のことです。
『凡聖逆謗ひとしく回入(えにゅう)すれば』とは、この世には凡夫から聖人まで色々な人がいるが、仏様に救われたならば、『衆水海に入りて一味なるがごとし』、色々な川が最後には海に入ってひとつになるように皆幸せになるという意味です。
なぜ自分が嫌いで苦しいのか
なぜ自分のことを嫌いになってしまうのでしょうか。
それは他人と比べるからですね。
世の中には凡聖逆謗色々な人がいます。
自分がどんな立場にいたとしても別の立場の人をみて羨ましがったり憧れたり、人は無い物ねだりをするものです。
他人を羨ましがれば、自分を下に見てしまって、自分を嫌いになってしまい苦しみます。
もし、人の心が明らかになるなら、すべての人が、実は無い物ねだりをして、他人のことを羨ましがって苦しんでいるのがわかります。
実は皆一緒だということです。
衆水海に入りて一味なるがごとし
『衆水海に入りて一味なるがごとし』といいますが、それは言葉を変えれば死んであの世に行ったらということです。
凡聖逆謗、みな等しく同じになるということですが、それは生きている間には見えなかった心が死ぬと明らかになるからです。
自分だけが劣っているとか、貧しいとか、不憫だという思いが苦しみですから、実は皆同じ悩みを持った人間なのだとわかれば苦しみがなくなります。
川魚が住む綺麗な川も生活用水が流れるドブ川も最後には海に入りひとつになります。
もっと広義に解釈すると川になる前はすべての水は空気中にある水蒸気です。
それが一時、別々の川になっているだけです。
やがてはひとつの海となり、また空気中へと還るのです。
自分と他人を比べるているのは、別々の川が、その一時だけを比べているようなものなのです。
追伸
そうは言っても他人とどうしても比べてしまいます。
人間として生きている以上、見えない心とセットで生きているわけですから、これを変えることが出来ません。
生きている間は、比べてしまうことから逃れることは出来ません。
生きている間、どうすればこの苦しみから逃れるか?と方法を探している間はいつまでたっても救われません。
生きている間だけではなくて、海に入ったあとのことまで理解し心に落ちたなら、その時人は救われるのです。
自分が嫌いで苦しい人に知って欲しい|衆水海に入りて一味なるが如しのまとめ
今日は『自分が嫌いで苦しい人に知って欲しい|衆水海に入りて一味なるが如し』と題して、衆水海に入りて一味なるが如しについて解説しました。
正信偈の教え
この世には凡夫から聖人まで色々な人がいるが、仏様に救われたならば、色々な川が最後には海に入ってひとつになるように皆幸せになる。
なぜ自分が嫌いで苦しいのか
人の心が明らかになるなら、すべての人が、実は無い物ねだりをして、他人のことを羨ましがって苦しんでいるのがわかります。
実は皆一緒だということです。
衆水海に入りて一味なるがごとし
生きている間には見えなかった心が死ぬと明らかになる。
自分と他人を比べるているのは、別々の川が、その一時だけを比べているようなもの。
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