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死とは何でしょうか?|医学的な死ではなく哲学的な死について

人は死を恐れています。
それは死というものは誰にでもおとずれるのに、
誰にとっても未知のものだからです。

誰もが死ぬまでに出来れば知っておきたいもの。

それが死です。

今日は『死とは何か?|医学的な死ではなく哲学的な死について』と題して、
Yahoo知恵袋に載っていたある質問と回答を紹介し、それについて考えていきます。



世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

死とは何でしょうか?

死とは何でしょうか。その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。
では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。
そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。
赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。
では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。
この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。
私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。
例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。
もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。
同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。
この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。
ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。
科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。
私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
質問者さん、 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。死んだとしても、気が付くと貴方は、母の胸に抱かれているでしょう。

引用:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12139541262

上記の文章はYahoo知恵袋に『死とはなんですか?』という質問をされていたものに回答されていたものです。

死を含めたこの世のすべてのことについて余すところなく説明されていると感じました。

この文章をひとりでも多くの人に読んでもらいたいというのが今日のブログの一番の柱です。

死とは何でしょうか? 私たちが普段、死と言っているのは物質的な死のこと

銀河鉄道999

この回答は『私と世界』の関係を見事に表しています。

本当の私は”脳”でも”肉体”でも”心”でもありません。

なぜなら、それらが、もし、なんらかの理由で壊れたとしても
それを治す技術があれば私は復活することが出来るからです。

この肉体は変えの効くパーツなのです。
心さえもです。
ただ今はすべてのパーツを変える技術はありません。

松本零士原作の『銀河鉄道999』という漫画があります。
機械の身体を手に入れるために宇宙を旅するという物語です。

機械の身体を手に入れると”永遠の命”が手に入るのです。

壊れても修理をしたりパーツを変えればまた元通りになるからです。

私たちが普段、死と言っているのは心や肉体を代表する物質的な死のことなのです。

私という生命は永遠なのです。

死とは何でしょうか? ”本当の私”は永遠の生命

私と世界をたとえるのにこんなたとえもします。

大きな海から一滴の水をすくい取ります。
その一滴の水は海ですか?それとも一滴の水ですか?

私たちが普段私だと思っているものは、この一滴の水です。

たとえば海の広さが生命の時間だとしましょう。

永遠の生命からほんの少しだけ切り取られてた生命の時間。
それが私たちが生きている時間です。

永遠の生命からみたらほんの一瞬に過ぎない時間です。

”本当の私”は肉体の有り無しに関係なく永遠の生命なのです。

死とは何でしょうか? 盲亀浮木のたとえ

お釈迦様の教えに『盲亀浮木のたとえ』という教えがあります。

「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その盲亀が、百年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は風のまにまに、
西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難(あなん)よ。 ※阿難は釈迦十大弟子の一人
百年に一度、浮かび上がるこの亀が、
浮かび上がった拍子に、
丸太ん棒の穴に
ひょいと頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」。
お釈迦さまが念を押される。
「何億年かける何億年、
何兆年かける何兆年の間には、
ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、
無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、
私たちが人間に生まれることは、
この亀が、
丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、
難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と教えられています。

引用:https://1kara.tulip-k.jp/buddhism/2019057357.html

ほんの一滴の時間。
広大な海からすくい取られた一滴の時間が私たちが生きている時間だと考えたら、
それは実に奇跡的なことです。

今日のお話は生命は永遠だから死を恐れずともよいというお話ではありません。

その永遠の生命の中で、
人間として生きている時間は、盲亀が丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも奇跡的な時間だということです。

せいぜい100年の人間として与えられた有り難い生命を精一杯に生きないと勿体ないという話なのです。

生命(時間)の無駄遣いは死を恐れること以上に恐れないといけないのです。

死とは何でしょうか?|医学的な死ではなく哲学的な死についてのまとめ

今日は『死とは何でしょうか?|医学的な死ではなく哲学的な死について』と題して、
Yahoo知恵袋に載っていたある質問と回答を紹介し、それについて考えました。

死というものを哲学的、形而上学けいじじょうがく的にみたときの死について書きました。

今、私が私として生きている時間は、
永遠の生命から切り取られたほんの一瞬の時間です。

死は生きている人間にとって未知のものですが、
肉体の有り無しにかかわらず生命は永遠だと考えたら、
死を恐れるよりも生きている時間を無駄に使う方がよほど恐ろしいことなのかもしれません。

そしてそれと同じように今という時間を大切にしないといけないのです。

形而上学けいじじょうがく的とは
形而上の存在を扱う、哲学の部門。現象界の奥にある、世界の根本原理を(純粋思惟(しい)や直観によって)探究する学問。

今日も読んでいただきありがとうございます。





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