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何者かになることをやめる|私が世界になる

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願うということは、今は”ない”ということ。

ただ今にいるということは、すでに在るということです。

何者かになることをやめることは、今の自分でいいと信じることです。

今日は『何者かになることをやめる|私が世界になる』と題して、何者かになることをやめるについて考えます

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

何者かになることをやめる|私が世界になる

何者かになることをやめる

苦しいから幸せになる。

貧しいから豊かになる。

これらは『私』の中で起こっているストーリーです。

何者かになりたいと思うのも、何者でもない『私』が、何者かになろうとするストーリーです。

やめるとは、そのストーリーをやめるのです。

現実世界で行っている行動はすべてこれらの方程式にのっとっていると思います。

お腹が空いたから食べる。

部屋が汚いから掃除する。

お金を稼ぐために仕事をする。

一見やめることなど出来ないと思います。

あるいはやめたいと思ってもどうやってやめるのか?とも思います。

やめる=死、なのでないか?とも思います。

たしかに死ぬとやめますので、ある意味それに近いのですが、もちろん死ぬことではありません。

このストーリーをのことを思考という言い方もできますが、『この思考が『私』たちの視界を遮っていてる』というと、その思考の向こうに正しい世界があるような印象で、それ自体がまたストーリーになってしまいますので正しく言い表せていません。

どんなたとえ話をしても、それはストーリーなので、言葉を理解するのではなく、伝えたいことを読み取っていただければと思います。

そのストーリーに『私』たちは苦しんでいるということです。

『私』は、ストーリーの中で生きているのですが、ストーリーは『私』の頭の中で起こっていることがあたかも現実のように『私』の視界に表れて目の前で繰り広げられているかのように『私』には感じられているだけなのです。

そして、『私』が頭の中で創り出した『足らないから行動する』というストーリーに『私』は苦しんでいるのです。

なので、何かをすることをやめるのではないのです。

何かをすること自体は問題ないのですが、『足らないから行動する』というストーリーをやめるということです。

『私』たちひとりひとりの頭の中に独自のストーリー

その昔、無声映画(活動写真)というのがあったそうです。

声がなく、ただ役者が芝居だけをしている映画です。

弁士と言われる人が、スクリーンの傍らで、その映画の内容を解説してくれるのですが、その解説がなければ、ただ役者が無声で芝居をしているだけで、そこにはただ芝居が起こっているだけです。

もし、弁士の解説がなければ、私たちはその映像を観ながら、きっとこんなことを言いたいのだろうとセリフを想像したり、『痛い』とか、『ヤッター』とか、気持ちを想像しながら観ると思います。

たとえるなら、この世界は弁士のいない無声映画で、その解説を『私』たち、ひとりひとりが頭の中でしているようなものなのです。

『私』たちひとりひとりの頭の中に独自のストーリーが生まれています。

『私』たちは同じ世界を共有しながら、実は別々のストーリーを生きています。

そのストーリーに『私』たちは一喜一憂しているのです。

そして、『足らないから行動する』という慣れ親しんだ感覚が、足らないことを苦しみと解釈し、行動して得ることを幸せと解釈する。そういうストーリーを創っているのです。

私が世界になる

さらに言うと、視えているものも、これと同じ理屈ですから、視えているものもストーリーです。

ラジオドラマを聞いたことがありますか?

これは無声映画とは逆で、セリフと解説しかラジオから聞こえてきません。

その音声だけを聞きながら、自分の中で映像部分も想像します。

視覚障害がある人は、解説のないセリフだけのラジオドラマの世界に生きているわけです。

疑似体験しか出来ませんが、目を閉じ、耳をふさぎ、鼻をつまんでみてください。

そこには誰もいません。

『私』という感覚はありますが、目を開けているときには、手や足が見えていて、どこからどこまでが『私』という確かな感覚がありましたが、目を閉じると『私』という意識はありますが、どこからどこまでが『私』なのか曖昧になってきます。

ですが、この感覚こそが、すべての人が共通してもっている『私』の最小単位とでもいうべき存在のような気がします。

すべてのストーリーは、その『私』からスタートしている。そんな気がするのです。

ここでは『私』があることも実に曖昧で。『私』以外が在ることも確認が出来ません。

つまり、『世界』と『私』の区別がありません。

もう少しその感覚を進めます。

ストーリーをやめて、人としての『私』をいったんやめて、世界になってみてください。

私が世界になる。

その世界の上にストーリーとして起こっているのが現実だということに気づけると思います。

何者かになることをやめる|私が世界になるのまとめ

今日は『何者かになることをやめる|私が世界になる』と題して、何者かになることをやめるについて考えました。

何者かになることをやめる 
『私』が頭の中で創り出した『足らないから行動する』というストーリーに『私』は苦しんでいるのです。
なので、何かをすることをやめるのではないのです。
何かをすること自体は問題ないのですが、『足らないから行動する』というストーリーをやめるということです。

『私』たちひとりひとりの頭の中に独自のストーリー 
たとえるなら、この世界は弁士のいない無声映画で、その解説を『私』たち、ひとりひとりが頭の中でしているようなものなのです。
『私』たちひとりひとりの頭の中に独自のストーリーが生まれています。
『私』たちは同じ世界を共有しながら、実は別々のストーリーを生きています。
そのストーリーに『私』たちは一喜一憂しているのです。

私が世界になる 
ストーリーをやめて、人としての『私』をいったんやめて、世界になってみてください。
私が世界になる。
その世界の上にストーリーとして起こっているのが現実だということに気づけると思います。

今日も読んでいただきありがとうございます。

 

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