『私』は誰の人生を生きている?|今ここを『私』の足で歩いている実感
あまりにも当たり前になりすぎて、自分が他人の人生を生きていることに気がついていないことがあります。
他人の目を気にするあまり、自分を殺して他人の期待に応えようとする私がいます。
ですが、まぎれもなくこの人生は私の人生ですから、私のために今ここを生きるべきなのです。
今日は『『私』は誰の人生を生きている?|今ここを『私』の足で歩いている実感』』と題して、『私』は誰の人生を生きている?について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
『私』は誰の人生を生きている?|今ここを『私』の足で歩いている実感
『私』は誰の人生を生きている?
実のところ、どんな生き方をしたとしても、それはすべて『私』の人生です。
『私』が『私』に嘘をついてもそれは『私』の人生だし、『私』に正直に生きても『私』の人生です。
人のせいには出来ません。
他人の目を気にして、『私』に嘘をつくとしたら、『私』の人生を他人に差し出しているようなものです。
小さいことなら許してもいいのか?というと、これがとんでもないことなのです。
人間には『一貫性とコミットメント』という心理作用があります。
人間は、一度心に決めたことや実行したことに矛盾のない行動を今後も取ろうとするのです。
つまり、小さいことだからと見過ごしたり、許したりすると、次に大きなことがあったときも許さないと自己矛盾が起きてしまって一貫性が取れなくなってしまうのです。
小さいからいいのではなくて、小さいことこそ許してはいけないし、見逃してはいけないのです。
なぜなら、大きなことは目につくし、許さなくても他人からの理解も得られやすいからです。
ですが、小さいことは他人の目に入りにくいし、見過ごされやすいのです。
小さいことを許してしまうと、次は『私』が許さないと『私』の中で矛盾が起って、許せないことも許さないといけなくなってしまうのです。
小さくて誰の目にも触れないようなことこそ、『私』というものをしっかり持っていないといけないのです。
今ここを『私』の足で歩いている
他人の目を気にしないなんて、理想論だと思われるでしょう。
難しいことも承知しています。
言っている僕だって他人の目を無視して生きているわけではありません。
他人の目を気にして『私』に嘘をついている場合。『私』の人生ではなく、他人の人生を生きていることになります。
他人の目を意識しながらも『私』が”それ”を選んでいるのなら、『私』の人生を選んでいます。
『私』が人生を選んでいるので、たとえ他人の目を意識していたとしても、どこかで修正することが出来たり、次は違う選択をすることも出来ます。
大切なことは、今ここを『私』の足で歩いている実感があるか?否か?なのです。
他人の期待に応えなくていい
人生を生きるということは、考えようによっては、ものすごく忙しいことのような気がします。
今ここを『私』の足で歩いている実感を感じている暇などないと思うかもしれません。
気を抜くと、何かに『私』を持っていかれるようなそんな強迫観念にかられることもあります。
周りの期待とか、『私』はこうあらねばならないといった目に見えない圧力に対抗しなければいけなくて、今ここを感じている場合ではない、そう思うかもしれません。
しかし、少し立ち止まって考えてみてください。
『私』は他人のことにそれほど関心がありますか?
無関心ということはないと思いますが、それほどの過度の期待をしてはいないはずです。
いえ。ある意味期待はしていますが、その期待と『私』が周りからされている期待とは少し種類が違いませんか?
『私』が求めめられているような気がしている期待は、たとえば世界(社会)の中で活躍することです。
学校で良い成績を取るとか、仕事で成果をあげるとか。
しかし、『私』が周りにしている期待は活躍することではありません。
『私』が周りにしている期待は『私』に関心をもってくれるだろうという期待ではないでしょうか?
『私』ががんばっている、活躍していることに関心をもってくれるだろうという期待です。
更にいうなら『私』の自己重要感を満たして欲しいという期待です。
ですから、『私』が求められているような気がしている期待。世界(社会)の中で活躍するといった期待は、『私』の頭の中だけのことで実際にはありません。
ですから、誤解を恐れずに言うと、他人の期待に応えなくていいのです。
それは、本当のところ『私』の『私』に対する期待なのです。
ですから、安心して今ここを、『私』の人生を、『私』の足で歩いている実感を持ちながら生きて欲しいと思うのです。
『私』は誰の人生を生きている?|今ここを『私』の足で歩いている実感のまとめ
今日は『『私』は誰の人生を生きている?|今ここを『私』の足で歩いている実感』』と題して、『私』は誰の人生を生きている?について考えました。
『私』は誰の人生を生きている?
実のところ、どんな生き方をしたとしても、それはすべて『私』の人生です。
『私』が『私』に嘘をついてもそれは『私』の人生だし、『私』に正直に生きても『私』の人生です。
人のせいには出来ません。
他人の目を気にして、『私』に嘘をつくとしたら、『私』の人生を他人に差し出しているようなものです。
今ここを『私』の足で歩いている
他人の目を意識しながらも『私』が”それ”を選んでいるのなら、『私』の人生を選んでいます。
『私』が人生を選んでいるので、たとえ他人の目を意識していたとしても、どこかで修正することが出来たり、次は違う選択をすることも出来ます。
大切なことは、今ここを『私』の足で歩いている実感があるか?否か?なのです。
他人の期待に応えなくていい
誤解を恐れずに言うと、他人の期待に応えなくていいのです。
それは、本当のところ『私』の『私』に対する期待なのです。
ですから、安心して今ここを、『私』の人生を、『私』の足で歩いている実感を持ちながら生きて欲しいと思うのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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