私と世界の関係性|すべては反応によって起こっている
『加害者は元は被害者』という話を聞いてなるほど、そうだなと思いました。
なぜなら私たちは何かしらの反応によって行動したり発言したりしているからです。
急に何かをすることはなくて、常に何かに反応している。
私という存在は世界に対する反応なのです。
今日は『私と世界の関係性|すべては反応によって起こっている』と題して、私と世界の関係について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
私と世界の関係性|すべては反応によって起こっている
すべては反応によって起こっている
すべては反応によって起こっています。
笑うのは、笑わしてくれた人、笑える出来事に対する反応。
泣くのは泣ける出来事、泣かす人への反応。
怒るのは怒らせた人、出来事への反応。
道を歩くけるのは、地面を蹴った反応。
商品を求められるのは宣伝したことへの反応だし、商品を売るのは注文があった反応。
反応に対して、また反応して、その反応にまた反応する。
それをずっと遡ると、宇宙のはじまり、ビッグバンに行き着くのだろうと思います。
ビッグバン以降、すべては反応によって起こってきたのです。
先日の輪読会で『加害者は元は被害者だった』ということを言ってくれたた人がいて、犯罪を犯した加害者でさえ、何かに対しての反応の結果、加害者になっています。
つまり元は被害者だったのです。
どこか一部を切り取ったときに、その切り取った場面では加害者に、また別の場面では被害者になっている。
そういうことではないでしょうか。
私と世界の関係性
この話が意味するのは、すべては繋がっているということです。
元はひとつで、それが何なのかはわかっていませんが、そのひとつから反応を繰り返して私たち一人ひとりは存在しています。
目の前のコップも道端に生えている草も鳥も飛行機もスーパーマンも・・・(苦笑)。同じなのです。
身体が疲れているのは頑張ったから。
眠たいのは寝ていないから。
怪我をしたのはつまづいたから。
物事には理由があって結果があります。
私は私のことしか見えないし、わかりませんから、『私』という区切りの中で、物事を見て、判断し、幸せになったり、不幸せになったりしています。
養老孟司先生のお話で『自分と環境』のお話があります。
田んぼを見て、あれは自分の一部だと思う人はいますか?と。
あの田んぼで稲が育って米が出来ますね。
その米を私たちは食べます
食べた米は私たちの一部になります。
じゃその米はどうやって育つかというと土の中の養分を取って光合成をして育つわけです。
環境が米を作ります。
どこで自分と環境は切れるんですか?
私というものをここからここまでと定義しただけで、本質的には全部繋がっているというのが本当のことです。
私は世界の一部
大げさに言うと、私をどう捉えているかで、寛容性に大きく差が出ると思います。
私を小さく捉えていると、私の身体、私のモノ、私の○○となんにでも『私の』をつけて所有感を持ち、奪われるのを恐れ、人に与えることが出来ない人になってしまいます。
私は世界の一部であり、私と世界は切り離せない関係なんだと捉えている人は、およそ所有感はありません。
すべては世界のモノであり、それは誰のものでもなく、誰でも自由に使うことが出来る。
たとえば所有というのは、そのためのルールに過ぎない。
そんなふうに考えているのです。
考えや価値観にも大きく影響があります。
私が小さい人は、自分の考えや価値観に縛られ、それを逸脱する人を許すことが出来ません。
私は世界の一部だと思う人は、この世界には色々な考えがあり、正解はなく、多種多様な意見や考え、価値観があることを許し受け入れることが出来ます。
どっちが幸せでしょうか?
私が小さいと許せないことばかりに囲まれてしまう気がします。
個人を私単位で切り離してしまうと、たくさんの考えや価値観があって、許せないことだらけの世界になります。
私が苦しくなります。
世界はひとつ、私が世界であれば、許すことに寛容になれます。
すべての考えがありになるからです。
許せると楽ですね。
これにしても正解はありません。
すべては反応ですから、自分の考えに対する反応が今自分がいる世界です。
世界をみれば自分の考えがわかるのです。
私と世界の関係性|すべては反応によって起こっているのまとめ
今日は『私と世界の関係性|すべては反応によって起こっている』と題して、私と世界の関係について考えました。
すべては反応によって起こっている
先日の輪読会で『加害者は元は被害者だった』ということを言ってくれたた人がいて、犯罪を犯した加害者でさえ、何かに対しての反応の結果、加害者になっています。
つまり元は被害者だったのです。
どこか一部を切り取ったときに、その切り取った場面では加害者に、また別の場面では被害者になっている。
そういうことではないでしょうか。
私と世界の関係性
この話が意味するのは、すべては繋がっているということです。
元はひとつで、それが何なのかはわかっていませんが、そのひとつから反応を繰り返して私たち一人ひとりは存在しています。
私は私のことしか見えないし、わかりませんから、『私』という区切りの中で、物事を見て、判断し、幸せになったり、不幸せになったりしています。
私は世界の一部
大げさに言うと、私をどう捉えているかで、寛容性に大きく差が出ると思います。
私を小さく捉えていると、私の身体、私のモノ、私の○○となんにでも『私の』をつけて所有感を持ち、奪われるのを恐れ、人に与えることが出来ない人になってしまいます。
私は世界の一部であり、私と世界は切り離せない関係なんだと捉えている人は、およそ所有感はありません。
すべては世界のモノであり、それは誰のものでもなく、誰でも自由に使うことが出来る。
たとえば所有というのは、そのためのルールに過ぎない。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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