ボブ・ディラン|風に吹かれて|どれだけ歩けば人として認めてもえらえるのだろう
2016年に「アメリカ音楽の伝統を継承しつつ、新たな詩的表現を生み出した功績」を評価され、歌手としては初めてノーベル文学賞を受賞したボブ・ディラン。
特に『風に吹かれて』は日本でも多数の歌に影響を与え、ドラマの挿入歌やテーマ曲、セリフとしても使われました。
今日は『ボブ・ディラン|風に吹かれて|どれだけ歩けば人として認めてもえらえるのだろう』と題して、『風に吹かれて』の詩にふれて感じたことを書いていきます。
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ボブ・ディラン プロフィール
ボブ・ディラン(英語: Bob Dylan、1941年5月24日 – )は、ユダヤ系アメリカ人のミュージシャンである。出生名はロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)だが、後に自ら法律上の本名もボブ・ディランに改名している。“ボブ”はロバートの愛称、“ディラン”は詩人ディラン・トマスにちなむ。70年代末には保守派のビル・グレアムの影響を強く受け、福音派(新興宗教的キリスト教)に改宗(ボーン・アゲイン)し、コンサートでブーイングを浴びたが、ソニー・ミュージックなどによれば、83年以降はユダヤ教に回帰している。2016年歌手として初めてノーベル文学賞を受賞。
引用:Wikipedia
ボブ・ディラン|風に吹かれて|日本語訳付き
どれだけ歩けば人として認めてもらえるのだろう
いくつの海を超えれば白い鳩は砂地で安らげるのか
友よ 答えは風に吹かれている 答えは風に吹かれている
これはドラマ『愛という名のもとに』で貴子(鈴木保奈美)と健吾(唐沢寿明)、時男(江口洋介)の3人が並んでいつも言うセリフです。
ボブ・ディランの『風に吹かれて』から引用されていたんですね。
ドラマ『愛という名のもとに』はFODプレミアムで視聴可能。今なら3話まではTVerで視聴出来ます。
ボブ・ディラン|風に吹かれて|ボブ・ディランのコメント
「この歌についちゃ、あまり言えることはないけど、ただ答えは風の中で吹かれているということだ。答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会を見ても分からない。風の中にあるんだ、しかも風に吹かれちまっている。ヒップな奴らは「ここに答えがある」だの何だの言ってるが、俺は信用しねえ。俺にとっちゃ風にのっていて、しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りてこなきゃならない。でも、折角降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも見られず理解されず、また飛んでいっちまう。世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ。俺はまだ21歳だが、そういう大人が大勢いすぎることがわかっちまった。あんたら21歳以上の大人は、だいたい年長者だし、もっと頭がいいはずだろう。」
引用:1962年に雑誌「シング・アウト!」
ボブ・ディラン|風に吹かれて|自分が変わらなければ何も変わらない
この歌は既成の社会構造に不満がある多くの人たちに支持されました。
ボブ・ディランもコメントで世の中に多くの悪党がいると言いました。
間違っているものを見て、それが間違っているとわかっていても、目を背けるやつが悪いと。
悪いことをするやつが悪い。
悪いことをするやつがいなくなれば世の中がよくなる。
本当にそうでしょうか?
悪いことをするやつがいたところで、本当は自分には何も関係がありません。
悪いやつが変わっても自分が変わらないと本当は何も変わらないのです。
逆に、どんなに世の中がよくなっても自分が変わらなければそれを享受することは出来ません。
悪いやつが自分の知らないところで悪事を重ね大金を稼いだところで、それが何なのでしょう?
もし悪いやつが大金を稼がなければ自分のところにそのお金が入るのでしょうか?
そんなことはありません。
他人がどう生きているかを変えることに意味はない。
自分が変わらなければ何も変わらないのです。
風に吹かれた答えが書いた紙切れを自分が拾って、自分の目で見ないと何も変わらないのです。
騙すやつが悪いと言って、騙す人間を批判しているだけでは、騙すやつが改心したとしても、また別の騙す人に騙されるだけなのです。
自分が変わらなければ何も変わらないのです。
ボブ・ディラン|風に吹かれて|変えないといけないのは、世の中ではなく余の中
『風に吹かれて』は半世紀以上前の歌です。
きっと、その頃から根本的な社会構造は変わっていないだろうと思います。
しかし、変えないといけないのは社会構造ではなく、それを見ている人間の構造だと思うです。
相手を陥れたり、傷つけることでしか自分を認めることが出来ない。
変えないといけないのは、世の中ではなく、そんな余の中なのです。
答えは風に吹かれています。
もし、その紙切れに書かれた答えを見たとしても、それがいつでも通用するわけじゃありません。
その時、その時のタイミングにあった答えがあるだけです。
人間はいつでも迷います。
さっき正解だったことが、次は不正解になる。
だから答えは風に吹かれているのです。
だから、いつでも変えてはいけないのは『自分を信じる』ということです。
今見た答えを信じられる自分でいることです。
『あの人が言ったから』『そう決まっているから』『過去こうだったから』
全部人のせいです。
ひとりひとりが、まずは自分が、人のせいにせずに自分を信じた道を自分が納得いくように歩き続けることです。
どれだけ歩いても、いくつの海を超えてもいつでも答えは風に吹かれているのですから。
ボブ・ディラン|風に吹かれて|答えは自分自身の中にある
シンプルで力強い旋律と和声進行を持つメッセージ・ソング。三連から成り、いずれも「どれだけの砲弾を発射すれば、武器を永久に廃絶する気になるのか」「為政者たちは、いつになったら人々に自由を与えるのか」「一人一人にいくつの耳をつければ、他人の泣き声が聞こえるようになるのだろうか」「人はどれだけの死人を見れば、これは死に過ぎだと気づくのか」というプロテスト・ソング風の問いかけと、「男はどれだけの道を歩けば、一人前と認められるのか」「山が海に流されてなくなってしまうのに、どのくらいの時間がかかるのか」という抽象的な問いかけが交互に繰り返されたあと、「答えは風に吹かれている」というリフレインで締めくくられる。この曖昧さが自由な解釈を可能にしており、従来のフォークファンばかりでなく、既成の社会構造に不満を持つ人々に広く受け入れられることになった。
引用:Wikipedia
この歌(詩)の素晴らしさは、解釈が自由にあるというところです。
答えが白黒はっきりしていると支持するのは多くて半分くらいになってしまいます。
しかし、自分の解釈でどうにでも聞こえてくるのです。
『答えは風に吹かれている』と『答えは風の中にある』ではニュアンスが違ってきます。
『風に吹かれている』なら、流動性を感じるし、『風の中にある』なら確固とした答えが存在する印象を受けます。
答えは自分自身の中にあるということがメッセージの奥行きに秘められていると思うのです。
政治的抗議のメッセージを含む歌の総称
ボブ・ディラン|風に吹かれて|どれだけ歩けば人として認めてもえらえるのだろうのまとめ
今日は『ボブ・ディラン|風に吹かれて|どれだけ歩けば人として認めてもえらえるのだろう』と題して、『風に吹かれて』の詩にふれて感じたことを書きました。
自分が変わらなければ何も変わらない
他人がどう生きているかを変えることに意味はない。
自分が変わらなければ何も変わらない。
変えないといけないのは、世の中ではなく余の中
いつでも変えてはいけないのは『自分を信じる』ということ。
答えは自分自身の中にある
『答えは風に吹かれている』と『答えは風の中にある』。
自分の解釈次第でどう聞こえるか?
答えは自分自身の中にある。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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