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比較は悪ではない|ありのままに世界を見る

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比較は悪ではありません。

ありのままに世界を見るためには比較することは必要だからです。

その結果について、どう解釈するか?

これが重要なのです。

今日は『比較は悪ではない|ありのままに世界を見る』と題して、比較について考えます

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

比較は悪ではない|ありのままに世界を見る

頑張っている人を素直に認められない

勉強とスポーツって、どっちも大変じゃないですか。

勉強頑張ってる人もスポーツ頑張ってる人も私は本当に尊敬してるし、かっこいいなと思っています。

だけど、スポーツを頑張ってる人と勉強を頑張ってる人では、周りからの態度が違う気がするんです。スポーツを頑張ってる人は、みんなからかっこいいね、頑張ってたもんね、などの事を言われているのに、勉強を頑張っている人は、たとえ結果を残したとしても、天才だもん、ガリ勉、などの言葉を言われていることが多いように感じます。

なぜ、このような違いがあるのでしょうか?

回答お願いします。

yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14263275269

この質問に回答しました。

これは『比較』の話ですね。

人間は、自分と他人を比較します。自分よりも出来る人のことを素直に認められない傾向があると思います。

勉強は、義務教育ですから、みんなが勉強をします。

同じ時間学校に行き、同じ内容を勉強して、同じテストを受けた結果があります。

だから、ついつい比較してしまう。比較が出来てしまうのです。

出来る人は、自分よりも頑張っていることが明らかですが、素直に褒めることが出来ないのです。

褒めることは同時に自分は頑張れなかったことを認めることになってしまうからです。

一方スポーツは、なぜ『頑張ったね』と褒められるのでしょうか?

そのスポーツを自分はやっていないからです。

やっていないのだから自分とは比較しない。

ですから素直に『すごいね!』『かっこいいね!』と褒めれるのではないでしょうか?

比較について

人間は比較することで、『自分』というものを認識します。

自分と自分以外を比較することで、この世界での自分の位置とか立場みたいなものを認識するのです。

そして、比較した結果、自分の位置が思わしくないと居心地が悪くなります。

ですから、居心地の悪さを解消するために現実を解釈しようとします。

その表れが、自分より勉強が出来る人を『ガリ勉』扱いすることなのです。

あいつは他人よりもガリガリ勉強しているから出来て当たり前という解釈です。

そうすると、自分が頑張っている人よりも出来ないことが正当化されるのです。

スポーツは勉強と違って全員がやっているわけではありません。

しかも、スポーツには種類がありますから、バスケットをやっている人が野球をやっている人と比べることはありません。

まして、スポーツをやっていない人なら、スポーツを頑張っている人を素直に認めることが出来るのというわけです。

比較は悪ではない|ありのままに世界を見る

比較そのものは、生きていて自分という存在を認識するためになくてはならないものだということになります。

なので、『他人と比較しない』などと言って、比較じたいを悪者扱いすることがありますが、『比較』じたいは悪者ではありません。

比較することが苦しみでも不幸なわけでもないのです。

どちらかと言えば、比較というものは、『ありのままのこの世界』を『私』に教えてくれる人間の大切な機能と言えるのではないでしょうか?

物事をありのままに受け入れるといいますが、比較出来るからありのままに受け入れることも出来るのです。

他人と比較してはいけないのではなくて、その結果をネガティブに解釈しないということが大事なことなのかもしれません。

この世界は大きな一枚の絵だとしましょう。

しかも、それはジグソーパズルになっているのです。

『私』もあなたも、そのパズルのピースのような存在です。

ピースには、凹みもあるし凸るもあります。

その凸凹があって、パズルは完成するのです。

もし、凸凹をありのままに見れなかったらパズルは完成しません。

パズルのピースとして世界の一部であることは完璧なことなのです。

ですが、ピース1個だけでは不完全ですよね。

ですから、周りにあるピースをありのままに見て、ひとつになっていかないといけないのです。

現実は、そんなに簡単に割り切れるものではないと思いますが、そう思って世界を眺めることが大事なことなのです。

比較は悪ではない|ありのままに世界を見るのまとめ

今日は『比較は悪ではない|ありのままに世界を見る』と題して、比較について考えました。

頑張っている人を素直に認められない 
人間は、自分と他人を比較します。自分よりも出来る人のことを素直に認められない傾向があると思います。
勉強は、義務教育ですから、みんなが勉強をします。
同じ時間学校に行き、同じ内容を勉強して、同じテストを受けた結果があります。
だから、ついつい比較してしまう。比較が出来てしまうのです。
出来る人は、自分よりも頑張っていることが明らかですが、素直に褒めることが出来ないのです。

比較について 
人間は比較することで、『自分』というものを認識します。
自分と自分以外を比較することで、この世界での自分の位置とか立場みたいなものを認識するのです。
そして、比較した結果、自分の位置が思わしくないと居心地が悪くなります。
ですから、居心地の悪さを解消するために現実を解釈しようとします。

比較は悪ではない|ありのままに世界を見る 
この世界は大きな一枚の絵だとしましょう。
しかも、それはジグソーパズルになっているのです。
『私』もあなたも、そのパズルのピースのような存在です。
ピースには、凹みもあるし凸るもあります。
その凸凹があって、パズルは完成するのです。
もし、凸凹をありのままに見れなかったらパズルは完成しません。
パズルのピースとして世界の一部であることは完璧なことなのです。

今日も読んでいただきありがとうございます。

 

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