神は不在か?|世界の仕組みを知る智慧

世の中には、どうしても納得できない不公平や悲しい出来事が溢れています。
なぜ善人が苦しみ、悪人がのうのうと生きているのか。「神様がいるなら、どうして助けてくれないのか」と怒りを感じるのは、人間として当然の感情です。
しかし、この世界の成り立ちを「感情を持った神」ではなく「淡々と動く仕組み」として捉え直してみると、見えてくる景色が変わります。
理不尽な現実の中で、私たちがどう前を向いて生きるべきか、そのヒントを探ります。
今日は「神は不在か?|世界の仕組みを知る智慧」と題して、世界の仕組みについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
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今日も、
そんなYouTubeの中から
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●神は不在か?|世界の仕組みを知る智慧
○神は不在か?|世界の仕組みを知る智慧
人間は何故、神等を信じる、現実社会を見ろ、不公平が溢れかえってる。
【生まれてすぐ亡くなる子供】
【突然病気で亡くなる人】
【凶悪犯罪を犯した人間がのうのうと生きる、〇刑は人間与えた罰、神が手を下した罰ではない】
【普通に生きていた人間が、不慮の事故、事件、突然病気、突然〇、餓死で亡くなる人間】
【人間が作り出した経済で富を得る人間、貧困に陥る人間】
神が居るなら、生まれた人間はみんな幸せ、世界は平和ではいのですか?
人間が争い、奪いあい、もがき苦しむのを本当に神等が居るなら黙って見てるのですか?
私は本当に神等々が居るなら、この世から去り、あの世が本当にあり神等々が本当に居て拝めるなら、勝手に人間や全ての生物を作り出して、お前らの娯楽(オモチャ)の一部で天上堺から見下ろし、ただ黙って行く末を見ている、神とやらに歯向かうけど、そのあと何が起きようがお構い無しに。
神等々を(宗教も)、下らない幻想に取り憑かれる人間は目を覚ませと思うのですが、どうですか?
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11326778056)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
「神がいるなら、生まれた人間はみんな幸せで、世界は平和であるはずだ」という考えこそが、一部の人間が作り上げた理想の神さま像なのかもしれません。
神という存在は、この世界の複雑な仕組みや自然の成り立ちを、私たち人間が理解しやすいように形にした創造の産物ではないでしょうか。
ここで一度、物事の「良い・悪い」という主観的な判断を脇に置いてみてください。そこに残るのは、「したこともしなかったこともすべて自分に返ってくる」という、極めてシンプルで冷徹な自然の摂理だけです。
この世界の仕組みそのものを神と呼ぶならば、その神は人間に特別な情けをかけたり、個人の祈りに応じて運命を書き換えたりすることはありません。
まるで精巧な機械が歯車を回し続けるように、淡々と事務的に、法則に沿って現象を引き起こすだけです。
ここで言う「自分」とは、単なる個人の肉体や意識を指すのではありません。私たちが「自分」と呼んでいる存在は、実はこの世界そのものの一部であり、世界全体の動きと切り離すことはできないのです。
たとえば、誰かが不慮の事故に遭ったり、幼い命が失われたりする悲劇に直面したとき、私たちは「なぜ神は助けてくれないのか」と憤ります。
しかし、その出来事という「結果」は、個人の行いだけで決まるものではありません。周囲の環境、社会の構造、時代の流れ、そして無数の偶然という「原因」が複雑に絡み合い、一つの形として現れたものです。
私ひとりで引き起こした結果など何一つ存在せず、すべては世界全体が動いた結果として、そこに現象が起きているに過ぎません。
私たちは、神に「正義」や「平等」を期待しますが、自然界に目を向ければ、そこにあるのはただ「循環」と「均衡」です。嵐が街を壊すこともあれば、恵みの雨となることもあるように、仕組みはただ動いています。
不公平に見える現実も、人間が作った「損得」という物差しで測るからそう見えるだけで、世界の仕組みからすれば、原因に対してそれに相応しい結果が返ってきているだけなのです。この冷徹なまでの正確さこそが、真の公平であり、平等です。
それを神と呼ぶのであれば、神は沈黙して見守っているのではなく、仕組みそのものとして常に動き続けていると言えるでしょう。
◯自分ができる最善の「原因」を積み上げていく
私は世界の一部であり、究極的には私自身が世界そのものであると言えます。
しかし、私たち人間には「私」という強い意識が備わっているため、どうしても自分という主観的なフィルターを通してしか、この世界を眺めることができません。
この主観こそが、時に私たちを苦しめる原因となります。「自分は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭うのか」という問いや、「これほど努力したのに、なぜ報われないのか」という不満は、すべて「私」という視点から生まれるものです。
このような考え方は、自分と世界を切り離して捉えてしまっている状態です。自分以外の無数の要因や世界の大きな流れを考慮に入れず、狭い自分の殻の中に閉じこもって、神という仕組みと直接交渉しようとしているようなものです。
しかし、この世界の仕組み(神)は、特定の「個人」をえこひいきして見ているわけではありません。
ただ大きな世界の流れの中で、法則に従って全体を動かしているだけなのです。私たちが「生きている」ということは、この「私」という意識を持って、主観の世界を旅していることに他なりません。
主観でしか世界を見られないことは、人間の宿命でもあります。
だからこそ、意識的に「自分は世界の一部であり、大きな流れの中に身を置いている」という事実を忘れてはいけないのです。
海に浮かぶ一滴の水が、自分自身の意思だけで波の形を変えられないように、私たちもまた、自分一人の力ではどうにもできない巨大な因果関係の中に組み込まれています。
凶悪な犯罪が野放しに見えたり、不公平な富の偏りがあったりするのも、人間が作り出した社会という仕組みの歪みが、そのまま結果として現れているに過ぎません。
私たちが「神の不在」を嘆くとき、それは自分の期待通りに世界が動いてくれないことへの不満であることが多いものです。
しかし、視点を「私」から「世界全体」へと広げてみると、景色は変わって見えます。悲劇も喜劇も、すべては巨大なパズルの一片であり、それぞれが次の展開を生む原因となっています。
この広大な循環の中に自分が含まれていると気づくことができれば、不条理な現実にただ打ちひしがれるのではなく、今この瞬間に自分ができる最善の「原因」を積み上げていくしかないと気づくはずです。
◯私たちに与えられた「自由」と「責任」
神や宗教という概念を、現実逃避のための「下らない幻想」だと切り捨てる考え方は、ある意味で非常に理にかなっています。
見えない力にすがり、現実の不条理を魔法のように解決してもらおうと願うのは、自分の人生のハンドルを他者に明け渡すのと同じだからです。
本当の意味で目を覚ますとは、神という名の救世主を待つことをやめ、この不公平で残酷な側面を持つ現実を、ありのままに受け入れる勇気を持つことではないでしょうか。
生きていれば、確かに神の救いなど微塵も感じられない瞬間があるでしょう。しかし、それは神がサボっているのではなく、私たち人間が自らの手でより良い世界を構築するための「自由」と「責任」を与えられているということでもあるのです。
神という名の仕組みは、私たちが投げかけた問いや行動に対して、寸分の狂いもなく結果を返してきます。平和を望むなら平和への原因を、争いを選ぶなら争いの結果を、世界はただ鏡のように映し出すだけです。
私たちは、この世界の仕組みの一部として、自ら原因を作り出し、未来を形作っていく神と同等の存在です。神のせいにするのではなく、自らの手で最善の「今」を積み上げていくこと。
それこそが、不条理(に感じてしまう)な世界に対する最高のリベンジであり、真に豊かな人生を歩むための唯一の道なのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
では、ごきげんよう。さようなら。
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ぜひ、お読みください。m(_ _)m
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