与えると損する気がする理由|両方を見ると世界が変わる

人は、何かを「与えた」と思うと、自分の時間や力を使った分だけ「失った」と感じやすくなります。
でも、本当はその中に「もらっているもの」もあります。
優しさや学びなど、目に見えないものは気づきにくいだけです。
仏教の「空」という考え方では、物事は「有る」とも「無い」とも言える両方の面を持つとされています。
与えることも同じで、失う部分と、もらう部分の両方があるのです。この両方を見ると、心が楽になります。
今日は「与えると損する気がする理由|両方を見ると世界が変わる」と題して、与えると損する気がするについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
●おすすめYouTube
くろちゃんはYouTubeを
観るのが大好きです。
毎日ガンガン観ています!
今日も、
そんなYouTubeの中から
オススメのものを紹介します。
●2026年 AIが全人類に”ある恐ろしい許可”を求めてくるらしい
●与えると損する気がする理由|両方を見ると世界が変わる
○与えると損する気がする理由|両方を見ると世界が変わる
誰しも、与えたものより与えられたものの方が遙かに大きいと思うのは当然のことだと思うのですが、そうは思わないという人も人類の中にはいるのでしょうか。
知恵袋参加者の中にもいますかね。
これを真に自覚したとき、よし自分も与えていかなきゃって思わないのですかね。
私はできるだけ答え甲斐がある質問を少しでも多く提供しようと日夜励んでおります。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11323005701)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
与えたモノというのは、同時に失ったモノでもあって、失ったモノの方が大きく感じてしまうことも人間の性のように思います。
なので、残念ながら与えられたモノの方が遥かに大きいと思うことは多くの人にとって当然ではないかもしれません。
同じように、質問に回答してやったではなく、考える機会をいただいたと思う人も多くはないのかもしれません。
人は基本的に「失ったもの」の方を強く記憶しやすい傾向があります。
時間や労力を使ったという事実は自分の中で明確に感じられるため、その負担が印象として残りやすいのです。一方、与えられたものは形がない場合も多く、気づかなければそのまま意識の外に消えてしまいます。
だから、与えたことばかりが目立ち、与えられたものに気づきにくくなってしまうのです。
また、人は自分の行動を「評価したい」という欲求を持っています。
そのため与える行為に対して「自分は良いことをした」と思うことで心のバランスを取ろうとします。ところが、与えられたものに目を向けるためには、少し立ち止まって心の余裕を持つ必要があります。
この「余裕」がないと、失ったものの方が大きく見えてしまい、与えられたものの価値が霞んでしまうのです。
◯両方を思う
「与える」ことと「失う」ことは同じことの裏表です。
どちらも本当であり、どう思うことが正解だとか間違っているということはありません。
ただ、人間は物事を比較した上で優先順位をつけたり、大小や上下をつけてそのモノの価値を決定しようとします。なので、質問にあるように「与えたものより与えられたものの方が遙かに大きい」と感じる人もいれば、「与えたものより失ったモノの方が遥かに大きい」と感じる人もいるのです。
繰り返しになりますが、どちらも本当です。どう思ったとしても間違っていないのです。
しかし、仮に正解というか、どう思うことが望ましいかと言えば、「両方を思う」ことだと思います。与えているとも言えるし、失っているとも言える。こう考えることが過不足なく「ありのまま」に見ることではないかと思っています。
物事には必ず二面性がありますが、多くの人はどちらか一方だけを選ぼうとします。
それが苦しさの原因になります。「自分は損をした」と思う時、その裏側に「得たもの」も必ず存在しています。しかし、注意を向けなければ見えないため、損失だけが実感として残ってしまうのです。
逆に「得たもの」を見ようとするクセをつければ、与える行為の感覚は大きく変わっていきます。
そして「両方を見る」という姿勢は、心の成熟を促します。与える行為を負担ではなく自然な営みとして受け止めることができ、結果的に他者との関係性も穏やかになります。この二面性を認めるところから、人はより深い理解へと進むことができます。
◯「空」の視点
このことは仏教の「空」の概念とも通じるものがあります。
「空」とは「無」ではありません。もちろん「有」でもありません。
有るとも言えるし、無いとも言える。その上位概念、抽象的概念が「空」です。
意識をしなければ人間には有か無のどちらかしか見えません。
有るのか無いのか?どちらかに決めるのが「見る」という行為です。
ところが、たとえば「人の心」、思いやりや優しさ、怒りや悲しみというのは、目に見えることもあれば、目に見えないこともあります。
「目に見えるモノ」、「目に見えないモノ」に囚われていると、「人の心」はわかりません。しかし、残念ながら多くの場合、人間は「目に見えるモノ」は有ると感じ、「目に見えないモノ」は無いと感じます。
つまり、喜びも悲しみも目に見えると「有る」、見えないと「無い」と判断してしまうのです。しかも、見える程度が人によって異なるからそこに感じ方の差まで出てしまいます。
与える・失うの話もこれと同じ構造を持っています。
目に見える損失だけに意識が向くと「与えると損をする」という世界しか見えません。
しかし、見えない領域まで視野を広げると、そこには信頼、学び、経験、つながりといった「与えられたもの」が静かに存在しています。
それは数字にも形にもならないため、意識しなければ見落としてしまいます。
「空」の視点とは、有と無のどちらかに決めつけず、両方を同時に抱える柔らかさのことです。
この視点を持つと、与えた・失ったという単純な評価軸を超えられるようになります。そして、その視点に立つことで、与えられたものの大きさに気づきやすくなり、人生の見え方そのものが変わっていきます。
今日も読んでいただきありがとうございます。
では、ごきげんよう。さようなら。
電子書籍を出版しています。
Unlimited会員なら0円で購入できます。
ぜひ、お読みください。m(_ _)m
ともいき個人セッションでは、あなたのお話を聞くことで、あなたが見えていないもうひとつの現実をともに探します。目から鱗が落ちる体験になります。
「迷わない」「信じる」ことを超本気でやってます。
ともいき信聞塾はオンラインで開催中!!















ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません