楽しく生きる意味|揺れを受け入れ自分を生きる方法

人の評価を気にしすぎると、本当の自分が見えなくなります。
どんな人でも心は揺れるものです。でも、その揺れを悪いものと思う必要はありません。
揺れながらも、自分が楽しいと思える生き方を大切にすれば、人生はもっと安心して進めます。
だれかの評価ではなく、自分の気持ちを大事にしていいんです。
今日は「楽しく生きる意味|揺れを受け入れ自分を生きる方法」と題して、楽しく生きるについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
●おすすめYouTube
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観るのが大好きです。
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今日も、
そんなYouTubeの中から
オススメのものを紹介します。
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●楽しく生きる意味|揺れを受け入れ自分を生きる方法
○楽しく生きる意味|揺れを受け入れ自分を生きる方法
正直な話、人生は楽しい。
ただ社会的評価は上がらないだろうなと思っている。
休みの日に哲学の本でも読んで中途半端に哲学に詳しくなっても人からの評価は高まりません。
哲学や歴史や、その他色々本を読んでるだけでも人生は楽しいです。
ただ社会的評価が上がるわけではないので、こんな人生でいいんかな?
とも思います。
どう思いますか?
ちまちま四字熟語勉強するのも楽しいです。
(補足)
なんか、面白みのない、つまらない人という評価の人間になっていいのだろうか?
とも思います。
考えすぎかもしれないとも思います。
楽しく生きてるだけでもいいのでは?とも思います。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13322562158)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
仮に社会的に評価されても、その時に自分が本当に楽しいと感じられるかはわかりません。
社会に評価される存在であり続けるというのは、楽しいばかりではないでしょう。
だからといって、社会的に生きることに価値がないわけでもありません。
どちらにしても、人生楽しいことばかりではないからです。
その中で自分がどう生きるか?でしかない。
今の生き方が自分にとって最善だと信じていても、「これでいいのか」という迷いは消えることがありません。そして、「これこそが最善」という生き方を見つけても、また同じように「これでいいのか」と揺れ動きます。
そんな風に「ああでもないこうでもない」と揺れ動くのが人生ではないでしょうか。
正解はないのです。その心の揺れを楽しむことができたら人生の達人と言えるかもしれません。
この考えもまた独りよがりかもしれませんが・・・。
そういう心の揺れに惑わされずに自分が楽しいと信じる生き方をした者が結局は楽しい人生を生きれるように思います。
人生は、社会的評価と個人の楽しさのあいだで常に揺れ動いています。
どれだけ評価を得たとしても、その評価にしがみつき続けなければならないプレッシャーが生まれます。成功が大きくなるほど、失敗の恐れも大きくなるものです。
評価を得ることは気持ちの良い体験ですが、それが“持続的な幸福”になるとは限りません。一方で、自分が楽しいと感じられる生き方は、外部の評価に左右されにくい安定感を生みます。
たとえそれが目立つものではなくても、内側から満たされていく感覚を支えます。
自分にとっての最善を信じても、揺れは必ずやってきます。
「これでいいのか」と自問し続けるのは、人生を雑に扱わず、真剣に向き合っている証拠です。
この揺れを否定しないことが、心の自由につながります。
揺れながらも楽しさを選び続ける生き方は、一見すると不安定に見えますが、実際は“自分で選んだ道”という確かな軸を育てます。
人生には絶対的な正解はありません。だからこそ、揺れをいかに楽しめるかが大切なのです。
◯「揺れ動く自分」で完成
本当に自分を信じているならば(高尚な言葉で言えば悟っているならば)、自分が楽しいと思う生き方を貫けばいいはずです。
自分に嘘をついて「本当に楽しい」と言っているわけではないでしょう。
しかし、そこに人間らしさというか、悟りきれていないというか?他人の評価、社会の評価を気にしてしまう自分がいます。
しかし、だからといって修行が足らないとか、自分はまだ本当の悟りを得ていないと思う必要はないと思います。
それは、たとえ最終的な悟りの境地のようなものがあったとしても、そこもまた揺れ動く心と付き合う場だろうと思うからです。
もし、「今ここにいる自分」が最終的な悟りの境地に至っていたとしても、そうでなくても、揺れ動く心は変わらないのです。
悟りの境地は「今ここ」にも在るし、そう思えないのなら「無い」だけのことなのです。
つまり、「揺れ動く自分」で完成した自分であり、その自分と「共に生きる」と決めた時、悟りの境地のようなものが在るのです。
“自分を信じる”とは、揺れのない強固な状態を指すのではありません。
むしろ揺れを抱えたまま、それでも一歩を選び取ることこそが、自分を信じるという行為に近いのだと思います。
人は完全に評価を気にしないで生きることはできません。評価が気になるのは自然なことであり、人間が社会の中で生きる以上避けられない感情です。
大切なのは、評価が気になっても“楽しさの軸”を失わないことです。
悟りとは、特別な境地に到達することではなく、「揺れながらも生きていく自分を受け入れる」姿勢のことかもしれません。
心が揺れるのは、感情が生きている証拠です。揺れをなくすのではなく、揺れを抱えたまま歩く。その姿勢が、生きる智慧になります。
今ここにある自分の感情や価値観を否定せず、そのままの自分と共に生きる。
これは、精神的成熟のひとつの形です。揺れ動く心があるからこそ、人は深く考え、迷い、選び直すことができます。
そしてそのたびに、自分の人生の輪郭は少しずつはっきりしていきます。“揺れながら生きる自分”を受け入れた瞬間、人はようやく自分自身と仲直りできるのだと思います。
◯自分の人生に責任を持つ
楽しく生きているだけでいいのでは?と感じる自分の声を、もっと大切にしても良いのだと思います。
社会的評価や他人からの見られ方は、私たちの心を常に揺らします。しかし、その揺れの奥にある「自分がどう生きたいか」という本音は、もっと尊重されるべきです。
人生を終えるときに振り返るのは、他人の評価ではなく、自分がどんな時間を生きたか、どんな景色を見て、どんな感情を味わったかです。
その視点に立てば、楽しく生きることは決して軽い生き方ではなく、むしろ人が追い求めるべき最も深い価値だと言えます。
自分の楽しさを感じる力は、誰にでもあるわけではありません。
外の刺激にばかり気を取られ、自分の声に耳を傾けられない人は多くいます。そんな中で「これが楽しい」と感じられるものを持ち、その時間を丁寧に味わえていることは、間違いなく人生を豊かにする大切な才能です。
他人には理解されにくい楽しみであっても、それが自分の内側を満たしてくれるなら、それは立派な“人生の中心”になりえます。
そして何より、人生は他人の基準で評価されるためのものではありません。
人が求める“評価される生き方”は時代や環境で簡単に変わります。しかし、あなたが感じる楽しさは、あなたの中にだけ存在する普遍的な価値です。
他人がどう思うかより、自分の内側がどう感じているか。それを中心に据えることで、生き方は確実に軽く、自由になります。
楽しく生きることは、逃げでも妥協でもありません。
むしろ、自分の人生に責任を持ち、主体的に選び取っている証拠です。
社会的評価は人生の一要素でしかありません。
それよりも、自分の心が満たされ、自分の人生が自分らしく輝いているかどうかが、もっと本質的な価値なのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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