私は他者になれるか?|関係性で生まれる私

「私」はいつも他の人やものとの関係で生まれてきます。
だからこそ、自分を決めつけず、他の人も変わりうる存在だと気づくことが大切です。こうした考え方は、より優しく前向きに生きるヒントになります。
今日は「私は他者になれるか?|関係性で生まれる私」と題して、「私」について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
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●私は他者になれるか?|関係性で生まれる私
○私は他者になれるか?|関係性で生まれる私
自分は他者になり得ますか。
頬に手を当てるとき、私は触っているんでしょうか触られているんでしょうか。
手が冷たく頬が温かい時(または逆)、冷たさと温かさを同時に感じます。
主体でもあり客体でもある気がします。
「私の〇〇と言えるものは私ではない」と聞いたことがあります。
私の家は私ではない。私の身体は私ではない。私の考え、私の気持ち。
私の身体や考えや気持ちは客体でしょうか。
それらが私ではなく客体であるという認識を持つと自己認識や他者認識にどのような影響があると思いますか。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11314611911)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
私という概念は、何かと結びつくことで初めて生まれるのではないでしょうか。
「〇〇をしている私」や「私の〇〇」のように、主体である「私」は常に客体との関係性の中で存在するのです。
単独で存在しているように思える「私」も、注意深く観察すれば「私について考えている私」という主体と客体の二つの側面を持っていることに気づきます。
主体と客体は分かつことができない存在であり、どちらか一方だけでは「私」は成り立たないと考えられます。
この考えに至った時、金八先生の「私はあなたに呼びかけられて『私』になる」という言葉を思い出しました。
「私」という主体は、常に客体との関係性の中で定義されるものなのです。そして、私たちが「自分自身」を語る時、必ずと言っていいほど「他者」や「環境」など、何らかの文脈や相手が存在します。「私はひとりぼっちだ」と言うときでさえ、「ひとりであることを認識する自分」が、周囲との比較や関係性の中でその孤独を感じているわけです。
また、身体的な感覚でもこの「二重性」は顕著に表れます。頬に手を当てたとき、私たちは「触っている私」と「触られている私」の両方を同時に体験しています。手が冷たく、頬が温かいとき、手としての「私」は冷たさを感じ、頬としての「私」は温かさを感じる。この一つの動作の中に、主体と客体が共存しているのです。
このことは、私たちの「自己」というものが独立した存在ではなく、常に「相手」があり、相手との関係性によって存在しているのだということを示しています。
つまり、「私」とは固定された実体ではなく、ある関係性や文脈のなかで現れるひとつの働きや現象なのです。
「私の考え」や「私の気持ち」と言った瞬間に、それらはすでに「私」とは別のもの、つまり客体として分離されている。では、「私」とは何なのか? その正体は、実体ではなく、むしろ他との関係性の中で浮かび上がる「働き」や「気づき」に近いのかもしれません。
◯「私」という存在が、世界を意味づけている
このことに気づいた時に、自分の人生について他人や社会のせいにできることはないことに気づかされます。
私が生きている世界は、「私」という主体と「世界」という客体によって成り立っています。その「世界」のことを「私」は他人や社会と呼んでいるのです。
一見、私にはどうすることもできなかったという現実は、「私」という主体なくしては起こらなかった現実だということに気づくのです。
私たちはしばしば「この世界は自分にとって不公平だ」「あの人のせいでこんな目にあった」と考えがちです。しかし、「私」が感じ、判断し、苦しみ、喜ぶという現実そのものが、他でもない「私」という主体の存在によって成立しているという視点に立てば、責任の所在はすべて「他人」にあるわけではないと気づかされます。
たとえば、ある人が私を否定的な言葉で「私」を責めたとしましょう。その言葉自体は客体ですが、それに「傷ついた」と感じる主体がいなければ、実際に「傷ついた現実」は成立しないのです。
言い換えれば、「私の内面」が「外側の言葉」によって反応し、意味づけをしているのです。これは逆もまた然りで、嬉しい出来事も「嬉しいと感じる私」がいて初めて意味を持ちます。
このように、「私」という存在が、世界を意味づけている。つまり、世界を構成しているのは「私の認識」であり、その認識が変われば、世界の見え方も変わってしまうのです。
苦手だった人が、あるきっかけで「良い人」に変わって見えるようになることがあるように、世界のあり方は私の意識と切り離せないものです。
この気づきは、自分の人生に対して主体的に責任を持つという姿勢を育みます。他者や社会を「変えられない外的なもの」として見るのではなく、「自分との関係の中で意味づけられるもの」として見ることで、私たちは自分の人生に対してより能動的なスタンスを取ることができるのです。
これは「自己責任論」ではありません。むしろ、「私が変われば、世界の感じ方も変わる」という希望をもたらす視点なのです。
◯私とは何か?
このような主体と客体の不可分性を深く理解することは、「私とは何か?」という問いへの答えに近づくためのヒントとなります。
「私の身体」、「私の考え」、「私の気持ち」。これらすべてが「私の」と表現される限り、私から切り離された「所有物」として客体化されます。しかしその「私」とは、果たして何なのでしょうか? それらを所有する主体である「私」とは、いったいどこに存在するのでしょうか?
この問いに正面から向き合うと、「私」とは固定された「存在」ではなく、「関係性の中で生成され続けるプロセス」であるという理解に行き着きます。
たとえば、頬に手を当てて冷たさと温かさを同時に感じるとき、そこにあるのは「冷たい手」と「温かい頬」ではなく、それを感じている「私」という一時的な体験の場です。つまり、「私」とはその体験が生まれる”場”であり、固定された実体ではないということです。
このように理解を深めると、自己認識は大きく変わります。「自分はこういう人間だ」といったラベルは、ある時点での状態を切り取ったにすぎず、本質ではないことに気づくのです。
同様に、他者に対して抱いていた「この人は苦手」「あの人は嫌い」といった印象も、実はその都度の関係性の中で生成されたイメージであり、絶対的なものではありません。
自己をプロセスとして捉えることで、「こうあるべき」という自己イメージから自由になります。他者に対しても「こういう人」という固定観を手放せるようになり、より柔軟で共感的な関係を築けるようになります。
この理解が深まると、自分や他人に対する過剰な期待や失望、怒りといった感情にとらわれることも少なくなります。
そして最も大きな変化は、「今この瞬間」を大切にする生き方にシフトできることです。
「私」という存在が常に変化し続けているのなら、過去にとらわれたり未来に不安を感じたりする必要はありません。
「今、ここ」で感じ、考え、選び取ることこそが、「私」という存在を形づくる最もリアルな営みだからです。
では、ごきげんよう。さようなら。
電子書籍を出版しています。
Unlimited会員なら0円で購入できます。
ぜひ、お読みください。m(_ _)m
●今日のまとめ
今日は「私は他者になれるか?|関係性で生まれる私」と題して、「私」について考えました。
○私は他者になれるか?|関係性で生まれる私
私という概念は、何かと結びつくことで初めて生まれるのではないでしょうか。
「〇〇をしている私」や「私の〇〇」のように、主体である「私」は常に客体との関係性の中で存在するのです。
◯「私」という存在が、世界を意味づけている
私が生きている世界は、「私」という主体と「世界」という客体によって成り立っています。その「世界」のことを「私」は他人や社会と呼んでいるのです。
一見、私にはどうすることもできなかったという現実は、「私」という主体なくしては起こらなかった現実だということに気づくのです。
◯私とは何か?
「私」という存在が常に変化し続けているのなら、過去にとらわれたり未来に不安を感じたりする必要はありません。
「今、ここ」で感じ、考え、選び取ることこそが、「私」という存在を形づくる最もリアルな営みだからです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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