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正義の裏は暴力?|不完全さを認める知恵

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正しさを信じる強い力は、時として他者を傷つける刃に変わります。

自分を「正義」と信じ込むことで、対立する相手を「悪」と決めつけ、攻撃を正当化してしまう危うさが人間には備わっているからです。

私たちは誰もが不完全な存在であり、自分の正義がすべてではないと自覚することが欠かせません。

相手には相手の正義があるという事実を見抜くことで、争いの連鎖を止めるための知恵と心のゆとりが生まれます。

今日は「正義の裏は暴力?|不完全さを認める知恵と題して、正義の裏は暴力?について考えます。

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。


そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

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●君も正しい、俺も正しい【ドラマの名言で哲学する】#虎に翼

 

●正義の裏は暴力?|不完全さを認める知恵

 

○正義の裏は暴力?|不完全さを認める知恵

 

正義ができる人は悪もかなり暴力的にできますよね?

yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11325590776

※質問は原文ママです。

 

みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。

 

極端に偏った正義は「正義のためなら何をしてもいい」という思いに取り憑かれることがあります。その最たるものが戦争です。

人間は相対的に物事を判断する生き物です。自分が正しいという確信を持つことは、自分と対立する相手を自動的に「悪」と判断することに繋がります。

自分が正しいと強く思えば思うほど、対峙する相手の悪を強く信じるようになります。そして「正義のためなら」という大義名分の下で、時に激しい暴力もやむなしという危険な考えに陥るのです。

 

この現象は、個人の正義感が強ければ強いほど、その裏側に潜む攻撃性も強くなることを示唆しています。

正義とは本来、社会を良くするための指標であるはずですが、それがひとたび「絶対的な真理」として固定されてしまうと、自分と異なる意見を持つ者を排除する免罪符に変わってしまいます。

相手を「悪」と決めつけることで、その相手に対する慈しみや同情の心は消え失せ、残るのは冷酷な裁きだけになります。

 

たとえば、SNSなどで行われる激しいバッシングも、この心理が働いています。

自分たちは正しいことをしているという強い信念があるからこそ、相手を徹底的に叩きのめすことに罪悪感を感じなくなってしまうのです。むしろ、悪を懲らしめているという快感さえ覚えることさえあります。

このような状態になると、暴力は肉体的なものだけでなく、言葉や精神的な攻撃としても表れます。

 

歴史を振り返っても、凄惨な争いの多くは「悪」を滅ぼそうとする「正義」の名の下に行われてきました。

自分たちの信じる価値観を守るためであれば、相手の命や尊厳を奪うことさえも肯定されてしまうのです。

これは、正義が持つ非常に恐ろしい側面です。正義を行う力があるということは、同時にその力を使って他者を深く傷つける力も持っているということです。

その二面性を自覚しないまま正義を振りかざすことは、非常に危うい行為であると言わざるを得ません。

◯自分の「正義の物差し」は自分専用

 

相対的にしか物事を判断できない人間という存在は、ある意味で不完全と言わざるを得ません。

ですが、人間は不完全な状態がデフォルトであり、そのままでも何も落ち度がなく完璧な存在です。

大切なことは、自分自身がそのような不完全な存在であるという事実を見抜くことです。つまり、自分の掲げる正義は決して絶対的なものではないと知ることです。それは同時に、自分が「悪」と決めつけている相手の姿も、絶対的なものではないという気づきを与えてくれます。

 

自分が自分の正義を強く信じているように、相手にも同じだけ強く信じている正義があることを忘れてはいけません。

私たちはどうしても、自分の視点からしか世界を見ることができません。自分の立っている場所から見える景色だけが「真実」だと思い込みがちです。しかし、反対側に立っている人には、全く別の景色が見えています。その人にとっては、その景色こそが真実なのです。

 

大人になると、これまでの経験や知識から「これが正しい」という固定観念が強くなりがちです。しかし、その正しさはあくまで特定の状況や環境において通用するものであり、すべての人に当てはまるわけではありません。

自分の正しさを他人に押し付けようとした瞬間に、摩擦と争いが生まれます。

「自分は正しい、相手は間違っている」という二元論で世界を切り捨ててしまうのは、非常に簡単で楽な思考法です。しかし、それでは本当の意味での対話や理解は生まれません。

 

自分の中にある「正義の物差し」は、あくまで自分専用のもので、他人の物差しと目盛りが違っているのは当然のことです。

その違いを認め、自分もまた間違える可能性があるという余白を持つことが、心の余裕に繋がります。

自分の不完全さを認めることは、弱さではありません。むしろ、自分とは異なる他者を尊重するための、もっとも強くて優しい知恵なのです。

◯君も正しい、俺も正しい

 

自分の正義が相手に見えないように、自分にも相手の正義は見えません。つまり、どちらが本当の意味で正しいかを客観的に証明することなど誰にもできません。

2024年前期のNHK連続テレビ小説「虎に翼」の中で、主人公の寅子と上司の多岐川幸四郎が議論する場面があります。そこでは、多岐川が「ああ〜辞めだ辞め。この議論は平行線だ。君も正しい、俺も正しい。それでいいだろ」と告げます。納得がいかない寅子に、多岐川は「喧嘩ほど時間の無駄はない。分かりあえないことは諦める」と言い放つのです。

 

このように言い切れるのは、自分には自分の、相手には相手の正義があるという事実を深く見抜いた結果だと言えます。

私たちは「話し合えば必ず分かりあえる」という幻想を持ちがちです。しかし、育ってきた環境も価値観も異なる人間同士が、すべての面で一致することなどあり得ません。分かりあえない部分があるのは、生き物として当然のことなのです。

 

この「諦める」という言葉は、決してネガティブな意味ではありません。「明らかに、見極める」という語源の通り、現状を正しく把握することを指します。

相手を自分の思う通りに変えようとしたり、自分の正しさを認めさせようとしたりする努力を止めることは、エネルギーの浪費を防ぐ賢い選択です。お互いの正しさが並立したまま、干渉しすぎずに共存する道を探る方が、はるかに建設的な関係を築けます。

 

平和とは、全員が同じ意見になることではなく、意見が違うままでも穏やかに過ごせる状態を指します。

相手の正義を否定せず、かといって自分の正義を捨てる必要もありません。ただ、「あなたはそう思うのですね、私はこう思います」という距離感を保つことが重要です。

この距離感こそが、暴力的な正義の暴走を止めるブレーキとなります。分かりあえないことを受け入れる勇気を持つことで、私たちは初めて、争いの連鎖から抜け出すことができるのではないでしょうか。

 

今日も読んでいただきありがとうございます。

では、ごきげんよう。さようなら。

 

 

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