偽善は徳になるか|誠実さが拓く未来

誰かのために良いことをしたとき、もし心の中に「褒められたい」という気持ちがあったら、それは本当に「善いこと」だと言えるのでしょうか。
偽善という言葉は、自分を良く見せるためのうわべだけの姿を指します。たとえ相手が喜んでくれたとしても、自分の心が嘘で曇っていれば、人生を豊かにする「徳」は積まれません。
本当の幸せや品性は、人に見せるためではなく、自分自身への誠実さから生まれるものです。
行動の奥にある心のあり方を見つめ直すことが、豊かな未来を切り拓く第一歩となります。
今日は「偽善は徳になるか|誠実さが拓く未来」と題して、偽善は徳になるかについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
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●偽善は徳になるか|誠実さが拓く未来
○偽善は徳になるか|誠実さが拓く未来
偽善とは、本心とは異なり、うわべだけを善人らしく見せかける行為や態度を指します。これは、自分の真の性格や意図を隠し、美徳や善行を装うことで、周囲からの評価や自身の利益を得ようとする行動とあります。
偽善でやる行為は例えそれで相手から感謝されても徳は積まれないですか?
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10325018160)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
徳を積むという行為は、相手からの感謝の有無によって決まるものではなく、自分がどのような態度で行動したかによってその価値が決まります。
たとえ誰からも感謝されず、結果が思い通りにいかなかったとしても、純粋に相手の幸せを願い、自分自身が「善い」と信じる行動をとったその瞬間にこそ、目に見えない徳が積まれていくものです。
しかし、質問にある「偽善」という形で行われる行為はどうでしょうか。
表面上は素晴らしい善行に見えても、その心の奥底に「人から良く見られたい」という欲求や「自分の利益につなげたい」という計算がある場合、それは徳を積む行為とは言いにくい側面があります。
なぜなら、徳とは外側からの評価ではなく、自分の内側にある精神の成長を指す言葉だからです。
たとえ相手が喜んでくれたとしても、そのきっかけが自分の利益を優先した嘘の姿であるならば、行動した本人の心には「自分は嘘をついている」という後ろめたさが残ります。この後ろめたさは、精神を磨くこととは正反対の方向に向かってしまいます。
徳を積むというのは、いわば自分の心の貯金箱に「誠実さ」という本物の硬貨を貯めていくような作業です。偽善という偽物のコインを貯金箱に入れ続けても、いざという時に自分を支えてくれる本当の自信や気品にはつながりません。
もちろん、相手が助かったという事実は消えませんし、その点では世の中にプラスの影響を与えたと言えます。
しかし、徳という視点で自分自身の人生を豊かにすることを考えるならば、結果としての感謝よりも、その行動を選んだ時の自分の心がいかに透明であったかを大切にする必要があります。
自分を偽って得た称賛は、いつか崩れてしまう砂の城のようなものです。本当の徳は、誰も見ていないところでも変わらない、誠実な心根から生まれるのです。
そのため、偽善による行為で相手から感謝されたとしても、それは相手の心を救ったことにはなりますが、自分自身の徳を積むことには直結しないと考えられます。
◯徳の正体
徳というのは、誰かから、たとえば神さまなどの特別な存在から一方的に与えられるものではないと考えられます。
何か善いことをしたから、その報酬としてどこかから振り込まれるご褒美のようなものではありません。
もし自分以外の誰かが審判のように評価を下して徳を与えてくれる仕組みなら、もしかすると自分の心の奥底を見通されることなく、器用に嘘をついて偽善を働いても、徳を得られるかもしれません。
しかし、本来の徳とは、自分が自分に対して贈る「絶対的な信頼」のようなものではないでしょうか。
徳という言葉には「精神の修養によってその身に得た、優れた品性」という意味が含まれています。つまり、徳を積むということは、自分が自分であるために、どのような品性を保って生きていくかという自己基準を高めていくプロセスそのものです。
誰かに褒められるからやるのではなく、自分がそうありたいと願うからこそ行う行為に、高い品性が宿ります。
たとえば、誰も見ていない道端に落ちているゴミを拾う行為を想像してみてください。誰かに見せるためのパフォーマンスであれば、人がいなくなった途端にゴミを無視するようになるでしょう。
しかし、自分の品性を高めようとする人は、誰も見ていなくても「ゴミが落ちているのは美しくない」と考え、自分のためにゴミを拾います。
この時、周囲の評価は関係ありません。自分自身の目に対して、恥ずかしくない生き方を選択できているかどうかが重要なのです。
偽善は、どうしても他人の目という外側の基準に依存してしまいます。
他人の反応に一喜一憂し、評価が得られなければ不満を感じるようでは、それは徳を積んでいるのではなく、単なる取引をしているに過ぎません。
自分自身の精神を美しく保つために、高い基準を持って行動すること。その積み重ねこそが、揺るぎない徳となり、その人の内側からにじみ出る魅力や強さへと変わっていくのです。自分を裏切らない誠実さこそが、徳の正体だと言えるでしょう。
◯本物の善意への修行
徳というのは、最終的にはその人の態度によって決まります。
ここで言う態度とは、ただ頭の中で「良いことをしよう」と思うだけではなく、その思いをどれだけ正確に行動に移せたかということです。
心の中にどれほど立派な理想があっても、それが形にならなければ現実の世界に影響を与えることはできません。しかし同時に、形だけの行動に心が伴っていなければ、それは中身のない空っぽな容器と同じです。
たとえば、道で困っている人を見かけた場面を考えてみましょう。
「大変そうだな、声をかけた方がいいかな」と心の中で思う人はたくさんいます。しかし、照れくささや面倒くささに負けて通り過ぎてしまう人と、勇気を出して実際に「何かお手伝いしましょうか」と声をかける人では、その後の心のあり方が大きく異なります。
当然ながら、思いを行動へと繋げた後者の方が、自分を律する力を持っており、徳を高めていると言えます。
ここで大切なのは、最初の一歩がたとえ少しの格好つけから始まったとしても、それを継続し、自分自身の本質へと変えていく努力です。
たとえ最初は偽善に近い気持ちがあったとしても、実際に人を助け、感謝される経験を繰り返す中で、「自分は人を助けられる人間なのだ」という自覚が芽生えることがあります。
その自覚が、やがて見返りを求めない本物の善意へと成長していくのであれば、それは一つの修行の形とも言えるかもしれません。
しかし、いつまでも自分を良く見せたいという嘘の動機に縛られたままであれば、行動すればするほど心は疲れ、本当の意味で徳が積まれることはありません。
徳の高い人とは、自分の思いと行動が一致しており、そこに一点の曇りもない人のことを指します。
自分が思った通りに、誠実に行動すること。そのシンプルな繰り返しの先に、周囲を動かし、自分の運命をも好転させていく大きな力が宿るようになります。
偽善という壁を乗り越え、自分の心に素直に正直に、一歩ずつ行動を積み重ねていくことこそが、徳を積むための最も確実な道なのです。
そうして築き上げた人格は、どのような困難の中でも自分を支える一生の財産となります。
今日も読んでいただきありがとうございます。
では、ごきげんよう。さようなら。
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