思い込みや執着を『手放す』ということ|いつでもフリーな私でいる

アドセンスに記述ミスがあります。一部のアドセンスは正しく表示されません。

モノを手放すのは簡単な行為なのに、思い込みや執着を『手放す』となると途端に難しいことのように思ってしまいます。

同じ『手放す』ですから、モノを手放すように思い込みや執着も簡単に手放せるはずです。

『手放す』について解説します。

今日は『思い込みや執着を『手放す』ということ|いつでもフリーな私でいる』と題して、『手放す』について考えます

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

思い込みや執着を『手放す』ということ|いつでもフリーな私でいる

 思い込みや執着を『手放す』

自分の思い込みや執着を自分の中から無くすことを『手放す』と言います。

どうもこの『手放す』という言葉が、『手放す』ことを難しくしている気がしてなりません。

『モノを手放す』という場合の手放すと、言葉は同じですが、心のことになると、一段も二段も難しいことのように祀りあげているように感じるのです。

難しいことを優しい言い方にしようという魂胆みたいなものとセットで『手放す』が使われている。

だから、『手放せばいいんですよ』と言われると返って難しいことのように感じてしまう。

そんな気がします。

モノを『手放す』のは、実に簡単で手を放しさえすれば、モノは簡単に手放すことが出来ます。

なのに、心にある目に見えない思い込みや執着というものは、手放そうと思ってもなかなか手放せない・・。

と思っているから手放せないのです。

それこそが思い込みであり、執着なのです。

モノを手放すのと同じように、思い込みや執着も手放せばいいはずです。

心と身体と『私』は切っても切れない関係

私たちは、身一つで生きているわけではありません。

心と身体がセットで『私』という意識のようなものを創っているのではないかと思います。

心だけでも『私』とは言えないし、身体だけでも『私』とは言えない。

また『私』だけでも『私』とは言えません。

心と身体と『私』は、切っても切れない関係なのではないでしょうか。

そして、その心のようなものにある思い込みや執着もまた『私』を形成するひとつの要素ではないかと思います。

その思い込みや執着というのは、『私』を形成する要素ですが、何を思い込むか?何に執着するか?は決まっているものでもなければ、決まって生まれてくるわけでもないと思うのです。

産まれたときには、思い込みがゼロという状態の思い込みがあって、それが生きていくうちに色々な経験体験をして、思い込みを積み上げていきます。またその中で執着するものも生まれます。

ですから、『手放す』と言っても思い込みが何もないという状態には、そもそもなれないのではないかと思います。

いつでもフリーな私でいる