来た球を打つことで自分の心を健全に

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『考えない』ということを書いていきます。

『来た球を打つ』

これは今この瞬間に集中すること。

イコール考えないことを示唆しています。

人は考えると我利我利してしまうからです。

しかし、考えないことも無理ですし、我利我利考えてしまうことも止められません。

ですから、我利我利していることを念頭において考えるのです。

今日『来た球を打つことで自分の心を健全に』と題して、来た球を打つについて考えます

 

世界一、幸せなみなさんへ

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来た球を打つことで自分の心を健全に

我利我利しないためにも来た球を打つ

今を生きることを表現する言葉として『来た球を打つ』ということを言っています。

ともいき仲間のアキラが言ってくれた名言です。

『来た球を打つ』ということの本質が何かというと”考えない”ということです。

極論を言ってしまうと、人が考えていることは嘘だからです。

どう嘘かというと、本音というものがあって、これを本当だとすると、それをわかってもらうための作為に満ちているという意味です。

たとえば、『自分は仕事が遅くて迷惑をかけている』と考えたとします。

それは、『そんな事無いよ』という言葉を他人から言って欲しい。他人からそれを引き出そうとする作為があるということです。

本音は『私で良いと言って』といった認めて欲しいという気持ちがあります。

だったら、そう言えばいいですよね?(笑)

でも、そう言うことははばかられるわけです。

相手に言わせたいからです。

自分から呼び水をかけるようなことをせずに相手に言わせたい。

ドロドロしてますよね?(笑)

つまり、考えるという行為じたいろくなもんじゃない。

自分のことしか考えていない。人間は我利我利亡者だということです。

昨日、『公のために生きる』というブログを書きましたが、公の中には自分も含まれていて、その上で自分を捨てて公のために生きるということを書きました。

非常に難解ですよね。

自分のためでもあり、でも”自分だけ”のためではいけないということです。

しかし、人間は考えると、どうしても我利我利してしまうものです。

それを止めることはかなり難しい。不可能なのかもしれません。

だから来た球を打つのです。

考える暇を作らない。

目の前のことだけに集中するということです。

考えずに、目の前に起こったことをひたすらこなしていくのです。

考えるから自分(我)が出てしまいます。

我利我利してしまうのです。

誰でも自分に都合が良い方がいいわけです。

他人のために何かをする場合でもそうです。

直接利益がなかったとしても、他人のためにすることが自分の名誉や評価をあげてくれる。

人が自分のことを好いてくれるとか。何かしらの利益がある。

我利我利しないためにも来た球を打って考えないことなのです。