公のために生きる

アドセンスに記述ミスがあります。一部のアドセンスは正しく表示されません。

公のために生きる。

当たり前のことであり、意味も難しくありません。

ですが、その範囲と考え方は人によって違います。

個人主義も大切ですが、個人は公の一部であるということをもう一度自覚しないといけない。

そう思います。

今日『公のために生きる』と題して、公のために生きるについて考えます

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

公のために生きる

ルールを守る

萩谷麻衣子先生

学校や教育委員会による『いじめの隠蔽』が体質としてあって被害者を苦しめていると言われています。

先日の『そこまで言って委員会NP』(読売テレビで毎週日曜日午後1時30分放送)で、『いじめ対策推進法が出来て8年になるけど学校がその法律を守らなくていいいという認識を持っていることが大きすぎる』とコメンテーターで弁護士の萩谷麻衣子先生がおっしゃっていました。

そこで思ったことは、最近の若い人が決まりを守らない、マニュアルやルール、約束を守らないのは、学校の先生が法律(ルール)を守らないことの映し鏡なんだということです。

麻衣子先生のお話も僕が思ったことも主観の部分があるとは思いますが、すべてがそうでなくても一部そういうことが現象として表れているということはあると思います。

『べつに自分ひとりが守らなくてたいしたことない』という風潮を感じることがあります。

自分ひとりが守らなくてもたいした影響はないと思っているのです。

確かに、ひとりならたいした影響はなくても、全員が同じ考えでルールを守らないと大変なことになります。

『自分くらいいいだろう』は個人主義が悪い形で表れた結果ではないでしょうか?

自分の価値や権利を主張する個人主義は大切ですが、個人の集まりが家族であり、会社であり、社会であり、国家であるということをどこか忘れてしまっていて、個人の権利ばかりを主張する風潮を感じています。

私たちは、尊重されるべき個人であると同時に公の一部であるという認識をもう一度自覚しなければいけないと思うのです。

そうでなければ、ただの自分勝手になってしまうと思うからです。