嫌われても信念を貫く?|正解がない理由

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自分の信念は、嫌がられることがあっても大切にしていいものです。

でも、それは「いつも正しい」という意味ではありません。

正しいと思って行動すると、うまくいくことも、間違うこともあります。

そのどちらも経験することで、本当の考え方が育っていきます。

正しさは人によって違い、絶対の答えはありません。

それを知ることが、成長するということなのです。

今日は「嫌われても信念を貫く?|正解がない理由と題して、信念を貫く?について考えます。

 

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●嫌われても信念を貫く?|正解がない理由

 

○嫌われても信念を貫く?|正解がない理由

 

自分の信念って嫌われても貫くのかとふと思ったんですけど どう思いますか?

yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14323306474

※質問は原文ママです。

 

みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。

 

たとえ嫌われようが自分の人生ですから信念を貫くべきです。

ただ、その信念を貫いてみてわかることもあるはずです。良いことも悪いこともどちらもです。

そうやって新たな信念が形作られていきます。

ですから、そのわかったことを素直に受け取って次なる信念の糧にしていくことになります。

 

信念とは、最初から完成されたものではありません。

むしろ未完成だからこそ、貫く過程で現実とぶつかり、削られ、形を変えていきます。嫌われることを恐れて信念を曲げてしまえば、その信念が本物だったのかどうかすら確かめられません。

反対に、嫌われる可能性を引き受けた上で行動してみて初めて、自分が本当に大切にしているものが何なのかが見えてきます。

 

信念を貫いた結果、うまくいくこともあれば、痛みを伴うこともあるでしょう。人が離れることもあれば、逆に深くつながる人が現れることもあります。

その一つひとつの出来事が、信念の輪郭をより現実的なものへと変えていきます。つまり、信念とは守るものではあるけれど、同時に育てるものでもあるのです。

 

ここで大切なのは、貫いた結果を「正解か不正解か」で裁かないことです。

結果をそのまま受け取り、自分の内側で何が起きたのかを見つめる。その積み重ねが、次に掲げる信念の質を高めていきます。

そう考えると、信念を貫くという行為は、自己主張ではなく自己理解のプロセスだと言えるでしょう。

◯自分の正しさを普遍化しない

 

正しいことをしなければいけません。

正しいことをすれば、それに対して自分がどれくらい正しく行えるかがわかります。また、その正しさに対する悪もわかります。

ただし、間違ってはいけないのは、その正しさは自分にとっての正しさであり、自分にとっての悪だということです。

間違っても絶対正義ではないし、絶対悪ではありません。

 

信念を貫くという話は、やがて「正しさ」の問題に行き着きます。人は自分が正しいと信じることを実践することで、初めてその正しさの限界に気づきます。頭で考えている正しさと、現実の中で行動として表れる正しさには、必ずズレが生じるからです。

 

さらに、正しさを実行すると必ず反作用が起こります。誰かにとっては善意であっても、別の誰かにとっては不都合になる。その時に初めて、自分の正しさが同時に誰かの悪になり得ることを理解します。この経験を通さずに、正しさを語ることはできません。

 

重要なのは、自分の正しさを普遍化しないことです。自分にとって正しいからといって、他人にも同じ正しさを求め始めた瞬間、信念は暴力性を帯びます。信念を貫くことと、他人を従わせることはまったく別物です。

 

ここまでくると、信念とは「正しさを証明するための旗」ではなく、「自分がどこまで引き受けられるかを測る基準」なのだとわかってきます。

この視点が、次の段階の理解へと自然につながっていきます。

◯結果を引き受けられるかどうか

 

仏教には八正道という正しい8つの行いをするという修行法があります。

正しい行いを実践し、その行いが身につけば悟りの境地に到れるのでしょうか?きっと、そういうことではありません。

正しい行いをすることで、間違った行いや頑張ってもなかなか実践できないことがわかってきます。

自分が正しいと信じることと、正しくないと信じること。この両方を知り、実はどちらも正しいのだということを知ることが悟りの境地ではないかと思います。

自分の思う信念が人生にとって、あるいは自分を取り巻く人々にとって正しいかどうかはわかりません。正しい場合もあれば、間違っている場合もあるでしょう。

どちらも正しくありません。しかし、どちらも正しいのです。

すべては相対的なもので絶対的に正しいこと、絶対的に悪いことというのはないのです。

 

この考え方は、信念を持つことへの最終的な視座を与えてくれます。

正しさを積み重ねた先にあるのは、万能感ではなく限界の自覚です。自分はどこまでできて、どこからできないのか。それが見えてくること自体が、深い理解なのです。

 

信念を嫌われても貫くかどうか、という問いの本質は、実は「結果を引き受けられるかどうか」にあります。

正しくあろうとすることも、間違うことも、そのどちらも人生の一部として受け取れるかどうか。そこに覚悟があるなら、信念は貫いていい。

 

逆に言えば、信念とは守り抜くための硬いものではなく、世界との関わりの中で揺らぎ続ける柔らかいものです。揺らぎながら、それでも歩みを止めない。その姿勢そのものが、信念を持つということなのだと思います。

 

今日も読んでいただきありがとうございます。

では、ごきげんよう。さようなら。

 

 

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