人は本当に自分で選択しているのか|選択とは環境との反応である

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人は、自分で選んで生きていると思いがちです。

でも実は、人はいつも世界や周りの環境に反応しながら生きています。

自分と世界は別々ではなく、つながった一つのものです。

選択とは、一人で決めているのではなく、

世界と一緒に起きている出来事なのかもしれません。

今日は「人は本当に自分で選択しているのか|選択とは環境との反応であると題して、本当に自分で選択しているのかについて考えます。

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。


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●人は本当に自分で選択しているのか|選択とは環境との反応である

 

○人は本当に自分で選択しているのか|選択とは環境との反応である

 

人って何で自分で選択してると勘違いしてるんですかね。私がこの質問を書くのも、あなたがこの質問に答えるのも、スマホを開くのも、呼吸も生き方さえも、何もかも、環境が選択させているだけのことなのに。

だから、それは選択ではなく、ただただ反応してるに過ぎない。

yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14323202549

※質問は原文ママです。

 

みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。

 

たとえば、手を描こうとする時、手を描かずに手の周りの背景を描けば、自ずと手が浮かび上がってきます。

つまり手と背景は一体のものです。どちらが欠けても成立しません。

自分と環境というのも同じ関係にあるといえないでしょうか。

自分が選択しているとも言えるし、環境が選択させているとも言えます。それを反応と呼んでもいいと思います。

 

ここで重要なのは、「どちらが正しいか」を決めることではありません。

私たちはつい、主語を「自分」に固定し、「自分が選んだ」「自分が決めた」と考えがちです。しかし、その自分はどこから生まれてきたのでしょうか。生まれた国、時代、家庭環境、身体、言語、価値観、それらを自分で選んだ記憶はありません。それらがすでに背景として存在しており、その中から浮かび上がってきたのが「自分」という輪郭です。

 

つまり、選択とは点ではなく、面で起きています。

ある瞬間に意志が発生したように感じても、その意志が生まれるまでに無数の条件が積み重なっている。空腹かどうか、疲れているかどうか、直前に見た情報、過去の経験、誰かの一言。そうした環境要因が組み合わさった結果として、私たちは「選んだ」と感じる反応をしているだけなのかもしれません。

 

しかし、だからといって人間が操り人形だと言いたいわけではありません。

手と背景が一体であるように、自分と環境も切り離せないという話です。背景があるから手が見えるように、環境があるから自分という存在が立ち上がる。自分が選んでいるとも言えるし、環境が選ばせているとも言える。その曖昧さの中にこそ、人間のリアリティがあるのではないでしょうか。

 

反応であることを認めると、人は少し楽になります。

「自分が弱いからこうなった」「自分の意思が足りないから失敗した」とすべてを自己責任にする必要がなくなるからです。選択とは、孤立した自我の産物ではなく、世界との共同作業なのだと気づいた時、自分を責める視点から、世界を理解する視点へと自然に移行していきます。

◯ただ共に鳴っている存在

 

両の手のひらを叩いた時に”パン”という音が鳴ります。

右手が鳴ったのか?左手が鳴ったのか?

右だけが鳴ったわけではないし、左だけが鳴ったわけでもありません。両方の手があってはじめてパンという音が鳴ります。

世界は、自分と自分以外(世界)があって成り立っています。

善と悪の関係も同じです。善という概念があるから悪という概念があります。

もし、この世界に「自分」一人しかいなければ何をしてもいいわけで、そこに善もなければ悪もありません。

自分以外の何かがあって(人とは限りません)、その何かのために自分に不都合が起きた時に、はじめて「悪」という概念と「善」という概念が同時に生まれるのです。

自分が選択しているのか?環境(自分以外)が選択しているのか?

繰り返しになりますが、この問いも両方があって成り立っているのです。

 

ここで見えてくるのは、「原因を一つに絞ろうとする癖」そのものが、人間の錯覚だということです。

私たちは音が鳴ると、どちらの手が原因かを探します。しかし実際には、原因は右手でも左手でもなく、「叩いたという関係性」そのものにあります。にもかかわらず、人は主語を探し、犯人を決め、責任を特定しようとする。

 

選択も同じです。

「自分が選んだ」と言えば主体性があるように感じられ、「環境に選ばされた」と言えば被害者のように感じられる。しかし現実はその中間にあります。自分という存在は、常に世界との接点でしか機能していません。完全に独立した自分など、最初から存在していないのです。

 

善と悪の話は、この構造を最もわかりやすく示しています。

誰もいなければ、誰も傷つかない。傷つく存在がいない世界では、行為に意味は生まれません。意味が生まれるのは、必ず「他」がいる時です。選択が選択として認識されるのも同じで、環境という他者があってはじめて、「選んだ」という感覚が立ち上がります。

 

だから、選択しているか反応しているか、という問い自体が二元論なのです。

右手か左手か、善か悪か、自分か環境か。どれも対立しているようで、実は一つの現象を別の角度から見ているに過ぎません。そのことに気づくと、世界は敵でも味方でもなく、ただ共に鳴っている存在だと見えてきます。

◯暗闇の中にいる私

 

「私」がいなくても世界は世界で成立しているという反論があるかもしれません。

もし、この世界に「私」しかいないとします。その時は「私」もいないのです。

どういうことか?というと、もし「私」しかいなければ、私は「私」を認識できないからです。

私というのは「私以外」の何かがあって成り立っているのです。その世界がもし、何も無い暗闇だったとします。

その世界に暗闇というものが在るから「私」が存在するのです。

「暗闇の中にいる私」という関係性が「私」であり「世界」なのことです。

 

ここまで来ると、「選択している自分」という感覚そのものが、世界との関係性の中で生まれた現象だとわかります。

自分が何かを決めていると思えるのは、決めた結果が世界に反映され、その反応を再び自分が受け取っているからです。フィードバックがあるからこそ、「私がやった」という感覚が生まれます。

 

もし完全な真空の中で、何の変化も起きなければ、そこに意志があったとしても確認しようがありません。

意志とは、世界に触れた時にはじめて輪郭を持ちます。反応があるから選択が見える。選択があるから自分がいるように感じる。その順番を逆にすると、話がややこしくなるのです。

 

だから、「環境がすべて決めている」と言い切る必要もありません。

同時に、「自分がすべて選んでいる」と思い込む必要もない。自分とは、世界と相互作用している現象であり、固定された実体ではありません。呼吸も、生き方も、質問を書くことも、答えを読むことも、その瞬間ごとに世界と共同で起きている出来事です。

 

選択とは、孤立した主体の証明ではなく、世界とつながっている証拠です。

反応しているという事実は、無力さではありません。それは、生きているという最も確かなサインです。世界があり、自分があり、その間で何かが起きている。そのこと自体が、すでに十分に豊かな出来事なのではないでしょうか。

 

 

今日も読んでいただきありがとうございます。

では、ごきげんよう。さようなら。

 

 

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