平等を求める理由|心の見えない差

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人が「平等になりたい」と言うのは、みんなと同じなら幸せになれると思うからです。

でも、本当に欲しいのは平等ではなく、他の人をうらやましいと思う気持ちが隠れていることもあります。

私たちは見えているものだけで「不公平だ」と感じるけれど、本当は見えていない大切なものもあります。

自分を「不幸だ」と思うと心が弱くなり、何も変わりません。

大事なのは、誰かと同じになることではなく、自分の人生をそのまま受け入れて生きることです。

今日は「平等を求める理由|心の見えない差と題して、平等について考えます。

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。


そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

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●平等を求める理由|心の見えない差

 

○平等を求める理由|心の見えない差

 

人々が平等を求める理由は何ですか?

平等で世の中をよくなりますか?

全員が苦労する世界なら満足ですか?

本当に平等を求めてるのか、妬みなのか。

yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14322490779

※質問は原文ママです。

 

みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。





平等を求めるのは、平等になれば自分も幸せになれると信じているからではないでしょうか。

今の自分は不幸せで、「あの人と同じになれば幸せになれる」と信じている。しかし、自分だけ良くなりたいとは言えない。だから「平等」と言っているのではないかと思います。

ところが、幸せそうに見える「あの人」もその人なりに課題や悩みがあります。

今の自分に無いモノを見る生き方ではなく「在るモノ」を見る生き方でなければ、たとえ「あの人」と同じになれても幸せにはなれません。

 

平等を求める声が強まる背景には、人間の心理があります。

人は「自分が損している」と感じた瞬間に、現状がどれほど恵まれていてもその価値を見失ってしまうのです。

たとえば、給料が十分であっても、周りが自分より多くもらっていると感じた瞬間に、急に不満が生まれるように、人間は「比較する生き物」です。本来の幸福は“自分の環境の中でどう生きるか”にあるのに、外に基準を置くと心は簡単に乱れてしまいます。

 

だからこそ「平等」という言葉は、ときに本心をカモフラージュする便利な言葉になります。自分の不足感や不満を正当化するためのスローガンとして使われてしまうことがあるのです。

もちろん社会的な不平等が是正されるべき場面は多々ありますが、それとは別に、個人の心が抱える「比較」と「不足」の感情が混ざると、本質が見えなくなります。

 

つまり、平等を求めているようでいて、本当は「自分の不安や不満の正体を見たくない」だけのこともあるのです。

“あの人のようになれば幸せになれるはずだ”という信じ込みは、幸福の入り口ではなく、むしろ出口を自ら閉ざしています。

幸せは外側にあるのではなく、「在るモノを見られる自分」によって初めて見えてくるからです。

 

本当に平等を求めているのか、それとも妬みなのか。その答えは自分の心の奥にあります。

他人と同じ条件を求めていても、自分が自分の人生をどう受け取るかが整っていなければ、平等の実現はありません。

平等への願いが本心なのか、それとも比較によって心が乱れているのか。自分自身と丁寧に向き合うことが大切です。

◯見えないモノまで受け取れる自分になること

 

この世は、「自分」と「自分以外」で成り立っています。「ここ」と「ここ以外」で成り立っているとも言えるし、ここに在る「スマホ」と「スマホ以外」で成り立っているとも言えます。

そして自分に「見えるモノ」と「見えるモノ以外(見えないモノ)」で成り立っているとも言えます。

では「見えないモノ」は無いのでしょうか?

他の人には見えているかもしれませんし、今は見えなくても在ることに気づく時がやってくるかもしれません。

たとえば「酸素」です。子どもの頃は「酸素」という物質自体を知らず、「無いモノ」でした。

しかし、学習し「酸素」がなければ人間は死んでしまうと知り「在るモノ」、しかも”なくては困るモノ”になりました。

人間には見えるモノしか見えません。しかし、今見えているモノが世界のすべてではありません。目の前に在るのに、今は見えていないだけかもしれません。

無いと思えば不満になります。平等を訴えたくなります。しかし、それは自分が在ることに気づきていないだけかもしれないのです。

 

人は「見えている部分」だけで世の中を判断しがちです。

SNSで成功者の姿を見れば、自分が劣っているように感じ、社会全体が不公平に見えてくる。しかし、それは“見えている断片”に支配されているだけで、その裏側の努力も苦労も見えていません。

 

平等を求める議論も同じです。表面的に見える「差」だけに注目してしまうと、本質を見誤るのです。

たとえば、仕事が順調な人を見れば「運がいい」「環境がいい」と思いがちですが、陰で何を積み重ねてきたかは見えません。そして、他人の背景が見えないまま“平等”を叫ぶと、自分の「今」を正しく評価できなくなります。

 

さらに、人生は不思議なもので、“今見えていない価値”が、後になって突然本質だったことに気づく瞬間があります。苦労も失敗も、その時は「無い方がいいもの」に見えても、後から「あれがあったから今の自分がある」と思えることがあります。つまり、不平等に見える状況すら、見えない価値を内包していることがあるのです。

 

世界は、自分が見えている部分だけでできているわけではありません。

“見えない価値”に気づくと、不満は静まり、平等を求める理由も変わります。

外の条件が整うことではなく、「見えないモノまで受け取れる自分になること」が、本当の幸せへの近道なのです。

◯自分は自分をどう扱っているか

 

「平等」という言葉を考える時、あるひとつの話を思います。

それは小笠原亮一著「共に在ること」の中に出てくる「脳性小児麻痺」の青年の話です。

その青年は、重い障害を持ち、高校で落第を経験し、いくつかの大学の受験に失敗し合格したのは他の生徒たちがあまり行きたがらない大学でした。しかし、大学では彼が中心となってボランティアクラブを創設し、はつらつと大学生活を送ったそうです。

そんな彼が卒業した高校で卒業間近の三年生を対象に講演をすることになりました。その講演の中で著者の小笠原先生が一生忘れられない言葉を彼は言ったそうです。

「世界で自分が最も不幸だと思った時、自分が自分を最も甘やかしていた時なんだ」。

小笠原先生は、この言葉に圧倒されたそうです。

 

平等を訴える時、人は自分のことを「不幸な人」「恵まれていない人」と決めつけてはいないでしょうか。

生まれや人種、肌の色などで、いわれなき差別を受けることはこの世界に確かにある事実です。しかし、それを受け入れることは、差別をする人間と共に、「自分が自分を差別する」ことにならないでしょうか。

自分は他の人よりも「恵まれていない」「不幸だ」と思うことは自分を最も甘やかしている時なのです。

 

本当に強い人は、状況のせいにしません。たとえ困難があっても、「自分は不幸だ」と定義しない。“今の自分で生きるしかない”と覚悟した人間は、不平等を理由に心を止めません。だからこそ、この青年の言葉は胸に刺さるのです。

彼は平等を求めたのではなく、「自分の人生を生きる覚悟」を選んだように感じます。

 

平等とは、本来“すべての人がまったく同じになること”ではありません。誰もが「自分の人生を生きられる可能性」を持つことです。

もし平等を語る時、その根底に「嫉妬」や「不満の正当化」があるなら、平等の議論は必ず歪んでしまいます。逆に、自分の人生を引き受ける覚悟がある人が語る平等には、力があります。

 

世界をよくするのは、完璧な平等ではなく、「不平等に見える現実をどう受け取り、どう生きるか」を選ぶ人が増えることです。平等を求める前に、自分は自分をどう扱っているか。そこからこそ、本当の答えが見えてくるのです。

 

 

今日も読んでいただきありがとうございます。

では、ごきげんよう。さようなら。

 

 

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