考えすぎは悪いこと?|深く考える力の活かし方

考えすぎるのは悪いことではなく、深く物ごとを考えられる力でもあります。
大切なのは、自分を責めず、どう考えれば楽になれるかを見つけることです。
今日は「考えすぎは悪いこと?|深く考える力の活かし方」と題して、考えすぎについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
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○考えすぎは悪いこと?|深く考える力の活かし方
打ち明けた時に考えすぎだよ〜と返されるのがむなしくなります。
考えすぎるといいことは無いのはそうですが、そんなに悪いことなんでしょうか?
何も考えない人よりは物事を深く考えられるんじゃないのかなとは思うんですけどどうなんでしょうか?
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12316585617)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
「(悪い方に)考えすぎだよ〜」と言いたいのではないでしょうか。
考えること自体は悪いことではないと思います。
ですが、必要以上に深刻に考えすぎたり、悪い方に考えすぎるのは良くないかもしれません。
「考えすぎだよ〜」という言葉を言われたとき、私たちはその言葉を「あなたの悩みなんて大したことじゃないよ」と軽く扱われたように感じてしまいます。とくに、こちらが勇気を出して打ち明けたときほど、その反応が胸に突き刺さるものになります。
ですが、多くの場合、「考えすぎだよ〜」の裏には悪気はなく、「そんなに思いつめなくても大丈夫だよ」という、相手なりの励ましや安心を与えようとする気持ちが隠れていることもあるのです。言い方やタイミングが不器用なだけで、「あなたの悩みはくだらない」と言いたいわけではありません。
本当に大切なのは、「考えること」そのものを否定しないことです。むしろ、物事を深く考える力は、自分自身の価値観や世界の見方を豊かにし、人との違いを理解する大きな武器になります。ただし、「深く考える」と「深刻に思い詰める」は違います。前者は広がりのある視点ですが、後者は狭く硬直した状態を生みがちです。
たとえば、相手の言葉の裏を何度も読み返してしまったり、「なぜあんなことを言ったのか」と夜眠れなくなるほど悩んでしまうことがあります。そうなると、思考は「考察」ではなく「自己攻撃」になってしまいます。
大切なのは、深く考える力を「建設的な視点」に使うことです。「どうしてこう感じたのか?」「どんな思考が自分を苦しめているのか?」と、自分自身の内側を見つめ直す機会にできれば、考えすぎる自分を責める必要はまったくありません。
「考えすぎだよ〜」の言葉に傷ついた時、自分を責めるよりも、「私はそれほど真剣にこの問題と向き合っているんだ」と、自分の心に敬意を払う視点を持つことが、むなしさからの一歩になります。
◯こういうふうに見る人もいるんだ
本人にとっては、特段「悪い方」に考えているわけではなく、あくまで事実をありのまま捉えた上で「考えている」のかもしれません。
しかし、物事には良いこと、悪いことがあるように、同じ出来事を、自分とはまったく別の方向から見る人だっています。
「考えすぎだよ」と言った相談相手は、その別方向からの景色が見えているのかもしれません。
つまり、その相談相手からすると、まさに「考えすぎ」なのです。
「考えすぎ」という言葉の裏には、価値観の違いがあるのかもしれません。自分が見ている世界と、相手が見ている世界が異なるとしたら、同じ出来事であっても受け止め方がまったく違って当然なのです。
たとえば、ある職場で上司から注意を受けたとしましょう。ある人は「自分はダメなんだ」と落ち込み、自己否定のループに入ります。一方で、別の人は「指摘してもらえてよかった」「改善点が見えた」と前向きに受け止めるでしょう。出来事は同じでも、反応は違います。
この違いが生まれるのは、その人が持つ「信念」や「過去の経験」が関係しています。自分を責めがちな人は、常に悪い未来を想定することで傷つかないように自己防衛してきたのかもしれません。逆に、「なんとかなるさ」と楽観的になれる人は、過去に何度も乗り越えてきた経験がその裏にあるのかもしれません。
だから、相談したときに「考えすぎだよ〜」と言われたら、それは「あなたの感じ方はおかしい」という意味ではなく、「自分だったらそんなに気にしない」という、その人なりの基準で語っているだけなのです。
とはいえ、感じ方に「正解」はありません。むしろ、自分がどう感じたかに正直であることが最も大切です。ただ、その正直な気持ちにとらわれすぎてしまうと、心が苦しくなってしまう。だからこそ、相手の視点も借りて、「こういうふうに見る人もいるんだ」と一度立ち止まって考えてみることは、視野を広げる助けになるでしょう。
その結果、「たしかに考えすぎだったかもしれない」と思えたらそれでいいし、「やっぱり私はこう思う」と自分を再確認することも意味のある行動です。いずれにしても、自分と他者の違いを尊重する姿勢が、自分を軽んじないための大切なステップになるのです。
◯考えすぎることには「優しさ」と「不自由さ」の両面がある
どんな事には、良いこと、悪いことがあります。
その良いこと、悪いことというのは、自分にとって都合の良いこと、悪いことです。
どちらから見るからで、自分にとっての現実が決まります。どちらも本当なのです。
どちらも本当なら、どちらから見た方が自分にとっていいか?
「考えすぎる」という状態は、一見ネガティブなことのように見えるかもしれませんが、実はそれによって「見落とされやすい本質」に気づけるという強みもあります。表面的なことだけでなく、背景にある文脈、人の気持ち、将来への影響まで想像できる人は、他人に対する配慮や繊細さにもつながっているのです。
ただし、その配慮や繊細さが自分を追い詰めることもあります。たとえば、「こう言ったら傷つくかな」「こんな態度を取ったら嫌われるかな」と思いすぎて、言いたいことも言えず、ストレスを溜めてしまう。つまり、考えすぎることには「優しさ」と「不自由さ」の両面があるのです。
ここで大切なのは、「自分にとって都合のいい見方」を意識的に選ぶことです。これは逃げではなく、「自分を守る知恵」です。「自分はダメだ」と責め続けるのではなく、「ここまで真剣に考えられる自分って、むしろすごい」と捉えてみる。「また考えすぎてるな」と思ったときに、「それは自分の長所でもある」と言い換えてみる。
視点を変えるだけで、現実は変わらなくても、心の状態がぐっと軽くなります。つまり、どちらの見方も本当であるなら、自分が元気になれる方を選べばいいのです。それが、考えすぎる自分を否定せず、うまく付き合っていくコツです。
むなしさを感じた時、それは「わかってもらえなかった悲しさ」の裏返しです。でも、自分が自分を理解し、認めてあげることができたなら、そのむなしさは少しずつ薄れていきます。誰かに「考えすぎだよ」と言われても、「それでも私は、ちゃんと考えているんだ」と胸を張って言える自分になれるのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
では、ごきげんよう。さようなら。
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