理不尽な人生に救いはあるか|意味は自分でつくる

自分の考え方を少し変えるだけで、人生は変わっていきます。
朝起きること、挨拶することなど小さな一歩が未来につながります。
生きる意味は自分の中に見つけていくもの。何もできない日があっても、今日も生きていること自体が大切な一歩なのです。
今日は「理不尽な人生に救いはあるか|意味は自分でつくる」と題して、人生に救いはあるかについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
●おすすめYouTube
くろちゃんはYouTubeを
観るのが大好きです。
毎日ガンガン観ています!
今日も、
そんなYouTubeの中から
オススメのものを紹介します。
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●理不尽な人生に救いはあるか|意味は自分でつくる
○理不尽な人生に救いはあるか|意味は自分でつくる
人生は理不尽だけど救いはないのでしょうか?
凄い他責思考なのですが全部親が生まなければ解決だったよね うん、で?
って状態で頭がフリーズしてます。
でも死ぬ気力がないじゃあ苦しいだけの人生を惰性で生きるしかないけどそれってやる意味あるのって思います。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14316350574)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
人生は考え方と生き方次第でいかようにも変わります
自分を救えるのは自分だけです。
「産まなければよかった・・・」という考えは、すでに産まれている今となっては何の意味もありません。
これからの自分を救うには、今この瞬間から考え方を変えるしかありません。
すでにご自身が他責思考だと気づいているのですから、他人(親であっても)のせいにせず自分の人生を生きましょう。
たしかに、人生は理不尽なことが多く、思い通りにいかない出来事も日々起こります。努力してもうまくいかないことや、報われない場面に直面することもあるでしょう。そのようなとき、人は「なぜ自分だけが」と感じてしまうものです。
しかし、その気持ちのまま立ち止まり続けていても、現実は変わりません。むしろ、「人生は変えられる」と信じることで、少しずつ現実が変わっていく可能性が生まれます。
他責の姿勢は一時的に心を守る役割を果たすかもしれませんが、長期的には自分の力を奪ってしまうことにもつながります。
大切なのは、人生の舵を自分自身で握る意志を持つことです。「こんな自分でも、何かを変えられるかもしれない」と思う気持ちが、変化の出発点になります。
たとえば、朝きちんと起きられた、掃除ができた、誰かに挨拶できた――そんな小さな行動の積み重ねが、自信につながっていきます。他人と比較するのではなく、昨日の自分と比べて一歩前に進めたかどうかに注目する姿勢が大切です。
人生は理不尽だからこそ、時折訪れる「うまくいく瞬間」がかけがえのない喜びとなります。何もかもが思い通りに進む人生では、喜びや感謝の気持ちは感じにくくなってしまいます。うまくいかない経験があるからこそ、うまくいったときの価値が際立つのです。
◯自分で自分を認める力
人生には、最初から意味が与えられているわけではありません。そのため、「生きる意味がわからない」と感じるのはごく自然なことです。
けれども、裏を返せば、人生の意味とは自分自身で見つけ、築いていくものでもあります。
誰かが「こう生きなさい」と決めるのではなく、「こうありたい」「これを大切にしたい」と主体的に選んでいくことで、人生は少しずつ意味を持ち始めます。
大きな目標や成功だけが人生の意味になるわけではありません。
むしろ、「朝のコーヒーが好き」「空を見上げると気持ちが落ち着く」といった日常の些細なことに幸せや感謝といった意味を見出すことで人生が充実するのです。
他人の生き方や価値観と比べてしまうと、自分の人生の意味を見失いがちになります。自分なりの価値観を育てることが、人生を豊かにし、自分自身を救う鍵になります。
また、自分の価値を他人からの評価に委ねてしまうと、どうしても不安定になります。親から認められない、自分の思いが伝わらない、そう感じることもあるかもしれません。しかし、本当に必要なのは「自分で自分を認める力」です。
◯生きることに生きる意味がある
「やる意味あるの?」の問いには、「生きているからこそ見つかる答え」があります
人生の意味や価値は、誰かに与えられるものではありません。「やる意味あるの?」という問いは、今まさに人生と真剣に向き合っているということなのかもしれません。
本当に何も意味がなければ、「意味あるのか?」という問い自体も生まれないからです。
つまり、問いを持てるということは、まだどこかに「意味を見つけたい」という願いが残っているということなのです。
意味が見つからないまま過ごす日々は、決して無駄ではありません。「とりあえず今日もごはんを食べてみる」「音楽を聴いてみる」「散歩して風を感じる」といった日常の行動の中に、ふと心が軽くなる瞬間が生まれることがあります。
そうした小さな心の動きの中に、「生きていてよかった」と思えるヒントが潜んでいます。ある日、公園で風が気持ちよく感じられたときや、誰かの文章が胸に響いたとき、それらはすべて“やる意味”があとから生まれている証拠です。
また、「惰性で生きている」と感じることもあるかもしれません。しかし、その惰性すらも、命が続いているという事実の証です。無気力で何もできないときでも、日々を乗り越えていることには大きな価値があります。
「やる意味があるかどうか」の答えは、誰かから教えてもらえるものではありません。自分で探し、自分の中で見つけるからこそ、そこに意味が起こるのです。
その旅こそが、生きるということそのものであり、その旅路を歩むこと自体に意味があるのではないでしょうか。
今日も読んでいただきありがとうございます。
では、ごきげんよう。さようなら。
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