立派とは何かを問う|抗い続ける姿が立派さの証

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人はだれでも醜い心をもっています。でも、それに気づいて良くしようと頑張ることが大事です。

頑張る心が立派なのです。

今日は「立派とは何かを問う|抗い続ける姿が立派さの証と題して、立派とは何かについて考えます。

 

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●立派とは何かを問う|抗い続ける姿が立派さの証

 

○立派とは何かを問う|抗い続ける姿が立派さの証

 

本性は醜いが、それを自覚した上で自分を戒め性格を正そうと努力をしている人は立派ですか。

それとも本性が本性な時点で醜い人間であることに変わりはありませんか。

yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13315384798

※質問は原文ママです。

 

みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。

仏教では、人は皆「我利我利亡者(がりがりもうじゃ)」だと教えられます。だとすると、そもそも立派な人など存在しないということになります。

であるならば、重要なのはその事実を認識し、自らを正そうと努めることだけです。

人は誰しも、自分に都合のいいように考え、動き、他者を評価します。こうした性質は生存本能からくる当然のものです。仏教で言う「煩悩」は、人間に生まれながらにして備わったものとして、避けがたい現実として語られます。

だからこそ、自分の中の「我利我利亡者」的な心を見つめ、それを戒め、コントロールしようとすることが、まさに人間の尊い努力なのです。本性に抗おうとするその行為に、私たちは「立派さ」を見るのです。

別の方の回答では、「過程は立派ですが、結果が立派かは別かもしれない」という意見もありました。しかし、私たちは過程を生きる存在です。人生は「過程の連続」なのです。

結果を求めるのは当然ですが、そこに至るまでの心の姿勢を軽んじるならば、努力という人間らしい営みは無意味になってしまいます。

たとえば、誰かに優しくしようと心がけていたのに、感情が抑えきれず冷たくしてしまったとします。その一度の結果だけを見て「あなたは優しくない人間だ」と断じてしまうことは、公平とは言えません。

むしろ、自分の未熟さに気づき、悔い、次こそはと思える人は、確かに立派なのです。

私たちが本当に恐れるべきは、「自分はもう十分に立派である」と思い込んでしまうことかもしれません。立派であり続けられないことを自覚し、だからこそ立派であろうと努め続ける。その姿勢こそが、立派さの本質です。

つまり、今の自分と素直に正直に向き合い、それを認め、足らないところは素直に埋めていく。十分にあるところは社会に還元する。その繰り返しが、立派な人生の歩みなのだと思います。

◯立派な生き方だけが存在する

 

私はこれまで「聞く」ことを学んでまいりましたが、その中で決して忘れてはならないと教えられたのは、「聞けている」と感じた瞬間に、実際には聞けていないということです。

「聞く」とは、相手の話をただ耳に入れることではありません。相手の想いや背景、感情の動きにまで意識を向け、心の奥にあるものに寄り添おうとする営みです。

そしてこの「聞く力」は、実は自己と向き合う力にも通じています。自分自身の心の声を「聞く」こと。自分の醜さや弱さに耳を塞がず、静かに聞き続けることは、決して楽な作業ではありません。ですが、それを避けた瞬間、人は「聞けているつもり」になり、成長の扉を閉ざしてしまうのです。

同じように、立派さを追い求める姿勢もまた、「自分はもう十分に立派だ」と思った瞬間に終わりを迎えます。つまり、「立派な人」は存在しません。存在するのは、立派な「あり方」「歩み方」なのです。

たとえば、どれだけ善行を積んでいても、それを誇示し始めた瞬間に、周囲から「いやらしさ」が見えてしまう。むしろ、「自分はまだまだだ」と思いながらも、誰かにそっと手を差し伸べている人に、人は心を動かされるのではないでしょうか。

これは、「聞く力」と本質的に同じです。聞いているつもりでも、聞こうとする姿勢が失われれば、相手の心に届くことはない。立派であろうとする努力も、立派さを自負することに変わった時点で、失われていくのです。

ですから、人が本当に大切にすべきなのは、常に自分の心に対して謙虚であり続ける姿勢です。自分の中の未熟さを見つけ、それを見ないふりせず、「自分にはまだ学ぶことがある」と思い続ける。その姿勢こそが、立派な人間の証ではないでしょうか。

立派な人は存在せず、立派な生き方だけが存在するのです。

◯本性に抗い続ける人

 

人は皆、心の奥底に「見せたくない自分」を抱えています。それが「本性」と呼ばれるものだとしても、それを自覚しているということは、すでにその本性の奴隷ではないという証です。

自覚とは、自分の影に光を当てる行為です。光を当てられた影は、自らを脅かす存在ではなくなります。問題なのは、影を見ないこと、見ないふりをすることです。醜い本性を「無かったこと」にしてしまえば、いつしかそれが自分自身を支配していきます。

けれども、それを見つめ、恥じ、変えようと努力する人は、本性そのものを少しずつ書き換えていく存在です。

たとえば、他人を妬む心。それを抱いた自分を責めるのではなく、「なぜ自分はこの感情を抱いたのか」と見つめ直すことができたなら、そこに人間としての成長があります。

妬みを感じた瞬間に、「自分はなんて器が小さいんだ」と思うのではなく、「この気持ちをどう受け止め、どう超えていくか」と問い続ける。そうした自問自答の繰り返しが、人格を磨いていくのです。

「本性が本性な時点で醜い人間だ」という考え方は、成長や変化の可能性を否定してしまう危険な視点です。もし人間が変わることができないのであれば、反省も努力も意味を持ちません。

しかし現実には、過ちを悔い、改め、より良く生きようとする人がたくさんいます。そこにこそ、人間の希望があるのです。

本性を見つめ、それを乗り越えようとする姿勢は、結果的にその人の人格を変えていきます。たとえ本性が変わらなくても、その本性に屈せず、少しでもましな行動を選ぼうとする力こそが、「尊敬に値する強さ」だと思います。

だから私は、「本性に勝てる人」よりも、「本性に抗い続ける人」を尊重したいのです。人は誰しも未熟です。しかし、その未熟さを抱えたまま、それでもなお、まっすぐ歩こうとする姿は、何よりも美しい。そう思います。

 

今日も読んでいただきありがとうございます。

では、ごきげんよう。さようなら。

 

 

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