愛とは何かの本質|見返りを求めない心の在り方
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「愛」とは見返りを求めず、誰に対してもやさしく思いやる心のことです。
人は感情や記憶で愛に差をつけてしまうけれど、本当の愛は分けへだてない気持ちです。
今日は「愛とは何かの本質|見返りを求めない心の在り方」と題して、愛とは何かについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
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今日も、
そんなYouTubeの中から
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●愛とは何かの本質|見返りを求めない心の在り方
○愛とは何かの本質|見返りを求めない心の在り方
至急 「愛」とは何なのか?
皆さんのご意見ください。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10315353190)
※質問は原文ママです。
みなさん、ごきげんよう。今日もよろしくお願いします。
一般的に「愛」とは、何か特定の対象を他のものと区別し、特別に好意を持ち大切に思う気持ちを指します。たとえば、恋愛における愛情、家族を他よりも大切にする家族愛、自国を他国より特別に思う愛国心などが挙げられます。「愛◯◯」というように、「愛」は他の言葉と組み合わせて使われます。
しかし、本質的な意味での「愛」とは、分け隔てのない慈しみの心、つまりこの世界の全ての人、モノ、出来事を区別なく愛する心だと考えられます。森羅万象、この世界に存在する全てが等しく大切だと思えること、それが本当の「愛」でしょう。
ただし、生きている人間がそのような感覚を持つことは、現実的には非常に難しいと言えます。
それはなぜか。私たちは経験や環境、文化や教育によって「特別なもの」を作り上げてしまうからです。「家族を愛する」「友人を愛する」「恋人を愛する」という感情は、たしかに尊く温かいものですが、その裏側には「他者との線引き」があります。つまり、「この人は大切」「この人は知らない人」「この人は嫌い」というように、無意識のうちに心に仕切りを作っているのです。
では、線引きをなくすとはどういうことか。それは、たとえば赤の他人の不幸を自分のことのように感じ、動物や自然、見知らぬ人々にも自然と温かい目を向けられる感情を指します。仏教の「慈悲」と呼ばれる境地に近いかもしれません。条件付きではなく、無条件で、ただそこに「あるもの」を認め、大切に思える心。それは日常生活の中でも垣間見ることができます。
たとえば、道端で困っている高齢者に声をかける時、相手が誰であろうと「何とかしてあげたい」と思える気持ち。あるいは、SNS上で誰かの悲しみの投稿を見て、会ったことのない人に対しても「大丈夫かな」と思える瞬間。そこには、何の見返りもなく、ただ「相手の幸せ」を願う思いがあります。
このような無償の感情が「愛」の本質ではないかと思います。そしてこの愛は、決して特別な人だけに与えられるものではなく、誰もが持ち得る可能性です。むしろ、それを意識するかどうか、つまり「愛そう」とする意思があるかが重要なのです。
◯愛に優劣はつけられない
仏教ではこんな話があります。
昔、ある徳の高いお坊さんが、周りの人たちに聞きました。
「もし、川に妻と母親が同時に落ちたらどちらを助けるか?」
「儒教の教えによると、子は親を敬うのが大事、だからまず母親を助けるべきだ」
「いや、キリスト教の教えからすれば愛が基本、だから愛する妻から助けるべきでしょう」
お坊さんは言いました。
「そんなに議論ばかりしていると、二人とも溺れ死にするぞ!早く助けんか!」
「和尚さんであれば、どうされますか?」
「わしか。わしであれば、まず近くにいるほうを助ける。命に色はついてない。考えるから迷うんだ。」
この話が私たちに教えてくれるのは、「愛に優劣はつけられない」ということです。誰を助けるかという問題に正解はなく、そこにあるのは「命」だけ。愛とは、論理や教義で決めるものではなく、瞬間瞬間の中で自然に湧き上がる行為や感情なのだと、この話は示しているように感じます。
また、このお話から分かるように、私たちは「どちらを選ぶべきか」といった究極の選択に迫られたとき、どうしても優先順位をつけてしまいます。そこには、人間が持つ感情、記憶、歴史が関わっています。たとえば「この人には昔助けられた」「この人と長い時間を過ごした」という思い出が、無意識のうちに判断を左右することもあります。
つまり、「愛」という感情は、人間である限り、常にどこかに「偏り」が生じるのです。そして、その偏りを完全になくすことは不可能です。だからこそ、私たちは時に苦しみ、時に迷い、時に後悔します。「あの時、違う選択をしていれば」と思うこともあるでしょう。
でも、それもまた「愛」の一つの形なのではないでしょうか。不完全な存在である私たちが、不完全なままで誰かを大切にしようとする努力。その姿こそが、本当の「愛」の証なのだと思います。完全を目指す必要はありません。ただ、自分なりの「愛し方」を持つこと、それが大切なのです。
◯愛とは何か
それでも私たちは、「愛とは何か」を考え続けます。
人間は不完全な存在であり、感情に左右され、時には自己中心的に行動してしまう生き物です。それでも、「誰かの幸せを願う」「誰かの苦しみを取り除きたい」と心から願った瞬間に、そこには確かに「愛」が存在しています。愛とは理屈ではなく、実感なのです。
たとえば、ボランティア活動をする人々がいます。見返りを求めず、誰かのために行動するその姿には、まさに「愛」が宿っています。親が子どもに深い愛情を注ぐように、無条件で与えること、寄り添うこと、気にかけること、それらすべてが愛の表れです。
逆に、愛を失うことから学ぶことも多くあります。別れ、喪失、裏切り。そういった苦しみの中で「本当の愛とは何か」を考えるきっかけになることもあります。愛とは喜びであり、同時に痛みでもある。だからこそ、私たちは「愛した記憶」を決して忘れることができないのです。
愛は、行動の中にあります。言葉よりも、態度に出ます。相手の立場に立ち、そっと手を差し伸べる。それだけで人は救われることがあります。そしてその「小さな行動」が、どれほどの力を持つかは計り知れません。
最終的に、私たちは「愛とは何か」に明確な答えを持つことはできないかもしれません。しかし、それでも考え続ける価値はあります。なぜなら、その問いに向き合うことで、私たちは他者とのつながりを深め、自分自身の生き方を問い直すことができるからです。
「愛」とは、ただの感情ではなく、生き方そのものなのかもしれません。誰かを思い、誰かに手を差し伸べる。その選択の積み重ねが、私たちの人生を豊かにし、誰かの人生を照らすのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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