絶望の中に希望あり|地獄だからこそ神が降臨する
絶望の中にこそ希望があります。
まだ絶望しか見えないとした、本当は絶望していないのかもしれません。
本当の絶望を感じたときに、抗うのをやめて身を委ねる気持ちになります。
そこに希望が湧くのです。
今日は『絶望の中に希望あり|地獄だからこそ神が降臨する』と題して、絶望の中に希望ありについて考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
絶望の中に希望あり|地獄だからこそ神が降臨する
地獄だからこそ神が降臨する?
むかし、知人と、神や宗教の話をネタとした思考実験の会話で
「地獄だからこそ神が降臨する」
と言っていた人がいました。
地獄でなければならない理由ってなんだと思いますか。
知人はいま行方知れずなんで、もう質問できないんですよ。
すいませんが、考察していただける方がおられましたら、お願いします。
yahoo知恵袋(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11271161671)
みなさん、ごきげんよう。
今日もよろしくお願いします。
人は苦しいとき、ないものを探すものです。
今足らなくて苦しいモノ。
たとえば、お金であったり、パートナーであったり、成功であったりです。
そして、神に祈ります。
どうか、願いが叶いますように。
その時に神さまは私の前に現れるのです。
つまり、苦しいとき、地獄にこそ神は降臨するというわけです。
仏さまは拝む人の心の中に
これは、島田紳助さんの話です。
『仏教というものは自分の心にするもの』。
手を合わせようと思った瞬間、自分の心の中は穏やかになります。
そこに極楽が生まれる。
博打に負けた、競馬に負けたというときに墓参り行こうと思う人はいません。
心が乱れている時に墓参りに行こうとは思わない。
ある日突然、長いこと行ってないな。墓参り行こうかなと思います。
その時、その人の心は穏やかです。
その瞬間、心の中に極楽が生まれます。
だから、お墓参りに行こうと思って、行かなかったとして1/10くらい行ったようなもの。
実際は行かなくてもいいと。お墓は汚いただの石だと。
家に仏壇があって、仏壇の中に仏さまがいるけれど、あれも職人が彫ったもの。
本当は仏さまではない。ただの木だと。
花をお供えしているけど、木で彫った仏さまが本当に仏さまならば、花は仏さまに向かって供えないといけないはず。実際は仏さまには花の裏しか見えていません。
よくよく見たら花を拝んでいる人に向かって供えられています。
つまり、仏教は、拝んでいる人の中に極楽も仏さまもあるという教えなのだと。
神さまも仏さまも、祈る人、拝む人がいて、はじめてそこに現れるということです。
なので、「地獄だからこそ神が降臨する」のです。
絶望の中に希望あり
少し前に、NHKの朝ドラ『エール』の話を書きました。
大好きな話なので、もう一度書きます。
『エール』は、戦前から活躍した作曲家、古関裕而さんをモデルにしたドラマです。
早稲田大学の第一応援歌として有名な『紺碧の空』や阪神タイガースの『六甲おろし』を作曲し、戦時中は『露営の歌』『暁に祈る』などの軍歌を作曲しました。
エールの主人公、古山裕一は、作曲の着想を得るために原爆が投下され復興中の長崎に行きます。
そこで、ある医者(吉岡秀隆)の話を聞くのです。
※長崎医科大の永井隆先生がモデル
医者は、焦土と化した長崎・広島を見て、ある若者から『神は本当にいるのですか?』と聞かれます。
その若者に医者はこう答えたそうです。
『落ちろ、落ちろ、どん底まで落ちろ』と。
この意味がわかりますか?と古山祐一に医者は尋ねます。
古山は『わかりません。教えてください』と請いますが、自分で見つけることが作曲のキッカケになるはずだと突き放します。
そして、古山は焼け跡のなかに『どん底に大地あり』と書かれた壁を見つけるのです。
そこにあるのは『希望』なのだと古山は気づきます。
『神の存在を問うた若者のように、なぜ?どうして?と自分の身を振り返っているうちは希望は持てません。どん底まで落ちて大地を踏みしめ、共に頑張れる仲間がいて、はじめて真の希望は生まれるとです』と医者は古山に言いました。
そして、再生と明日への希望を高らかに謳い上げた古山裕一(古関裕而)の代表曲『長崎の鐘』を作曲するのです。
苦しいところにしか希望はありません。
幸せで満ち足りたときに希望を欲しいと思う人はいません。
なので、苦しいときこそ祈る、拝むという気持ちを持つことが大切なのです。
絶望の中に希望ありなのです。
では、ごきげんよう。さようなら。
絶望の中に希望あり|地獄だからこそ神が降臨するのまとめ
今日は『絶望の中に希望あり|地獄だからこそ神が降臨する』と題して、絶望の中に希望ありについて考えました。
地獄だからこそ神が降臨する?
人は苦しいとき、ないものを探すものです。
今足らなくて苦しいモノ。
そして、神に祈ります。
どうか、願いが叶いますように。
その時に神さまは私の前に現れるのです。
仏さまは拝む人の心の中に
仏教は、拝んでいる人の中に極楽も仏さまもあるという教えなのだと。
神さまも仏さまも、祈る人、拝む人がいて、はじめてそこに現れるということです。
なので、「地獄だからこそ神が降臨する」のです。
絶望の中に希望あり
幸せで満ち足りたときに希望を欲しいと思う人はいません。
なので、苦しいときこそ祈る、拝むという気持ちを持つことが大切なのです。
絶望の中に希望ありなのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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