『私』とは何者?|肉体が死んだら『私』はどうなる?
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肉体が死んだら『私』がなくなります。
何を当たり前な!という話ですが、その実に当たり前のことがなぜなのか?ということを今日は書いていきます。
今日は『『私』とは何者?|肉体が死んだら『私』はどうなる?』と題して、肉体が死んだら『私』はどうなる?について考えます。
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『私』とは何者?|肉体が死んだら『私』はどうなる?
『私』とは何者?
肉体が死んだら『私』がなくなります。
何を当たり前な!という話ですが、その実に当たり前のことがなぜなのか?ということを今日は書いていきます。
そもそも『私』とは何か?という話ですが、仏教では諸法無我といって、全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないと教えられています。
つまり『我(私)』というのは実体がないというのです。
どういうことかというと、人間には六種の認識器官があります。目、鼻、耳、舌、触、そして心で6つです。
これらの認識器官が外界にある認識対象を認識しているわけですが、仏教では『私』がないと考えますから、『私が』認識しているとは考えません。
『認識対象を認識している』働きそのものが『私』と考えるわけです。
つまり、固定された『私』というものが認識しているのではなく、六種の認識器官が認識した情報を結ぶネットワーク全体を『私』と考えるわけです。
少し何言ってるかわからないかもしれませんが、そう考えると認識対象も『私』ということになります。
目の前にコップがあれば、そのコップも『私』なんです。
なぜなら、認識されなければそれは存在しないからです。
なので、『私もいないし、あなたもいない』、あるいは『私はあなた、あなたは私』というふうに表現されるわけです。
過去も未来も現在もすべて今に在る
これは、置き換えると『今』という概念とも同じです。
『今』というのは、過去、現在、未来を結ぶネットワーク全体のことです。
人間には時間という概念があるので、今というのを刹那的に捉えます。過去、現在、未来を結ぶ結び目、現在を『今』と考えますが、実は『今』というのは、過去、現在、未来を結ぶネットワーク全体のことです。
『今しかない』という言い方をするのはそういうわけです。
過去→現在→未来というふうに流れとして捉えますが、実際は『過去を思う今』ですし、『未来を思う今』です。
確かに過去はあったと思い込んでいますが、今ここに過去はありません。
確かに未来が来ると考えていますが、今ここに未来はありません。
いつだって、ここには今しかありません。
ですが、ネットワーク全体だと考えると、それはすべて在るということになります。
過去も未来もそして現在もすべて今に在るというわけです。
肉体が死んだら『私』はどうなる?
話が逸れましたが、つまり、『私』は六種の認識器官を通じたネットワークで出来ています。
胸のあたりをパカッと開くと『私(魂)』が取り出せるわけではありません。(笑)
繰り返しになりますが、『認識対象を認識している』働きそのものが『私』なのです。
だとすると、認識対象を認識するという働きを失うと『私』はなくなるというわけです。
つまり認識器官である肉体が死ぬと『私』はなくなるのです。
人の死というのは、実に曖昧なものです。
法律では医者が『死亡確認』をすることによって、死が確定しますが、死亡確認のあと臓器移植が行われることもあります。
死亡しても臓器は他の人の身体で生き続けるわけですから、それを『死』といっていいのか?難しい問題です。
ですが、もし、『私』の消滅をもって『死』とするということになると、六種の認識器官がすべて機能不全になった時点で『私』は死んだと言えるのではないか?そう思います。
たとえ臓器が生きていても、それは認識器官ではないからです。
そして、認識器官が消滅することは『私』の永遠の終わりであり、生まれ変わりはないと考えます。
胸のあたりをパカッと開くと『私(魂)』が取り出せるなら、肉体が消滅してもまた違う肉体で『私』が蘇るということもあるかもしれませんが・・。
しかし、こうも考えられます。
今この瞬間に『今』が形成されるように、『私』も瞬間々形成されているのです。
次の瞬間、肉体が違うかもしれませんが、それも『私』です。
『私』とは、肉体を含めたネットワークそのものだからです。
そう考えると、人は瞬間々生まれ変わっていると言えるかもしれません。
『私』とは何者?|肉体が死んだら『私』はどうなる?のまとめ
今日は『『私』とは何者?|肉体が死んだら『私』はどうなる?』と題して、肉体が死んだら『私』はどうなる?について考えました。
『私』とは何者?
人間には六種の認識器官があります。目、鼻、耳、舌、触、そして心で6つです。
これらの認識器官が外界にある認識対象を認識しているわけですが、仏教では『私』がないと考えますから、『私が』認識しているとは考えません。
『認識対象を認識している』働きそのものが『私』と考えるわけです。
過去も未来も現在もすべて今に在る
『今』というのは、過去、現在、未来を結ぶネットワーク全体のことです。
人間には時間という概念があるので、今というのを刹那的に捉えます。過去、現在、未来を結ぶ結び目、現在を『今』と考えますが、実は『今』というのは、過去、現在、未来を結ぶネットワーク全体のことです。
『今しかない』という言い方をするのはそういうわけです。
肉体が死んだら『私』はどうなる?
『認識対象を認識している』働きそのものが『私』なのです。
だとすると、認識対象を認識するという働きを失うと『私』はなくなるというわけです。
つまり認識器官である肉体が死ぬと『私』はなくなるのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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