『わからない』という気持ちは優しさ|『私』は70億分の1しか見えていない

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『私』には見えていないこと、わからないことがある。

そう思うことは優しさになります。

反対に『わかっている』『知っている』は冷たさになることがあります。

素直にありのままな心で、この世界と付き合うことが大切です。

今日は『『わからない』という気持ちは優しさ|『私』は70億分の1しか見えていない』と題して、『わからない』ことがあるについて考えます

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
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『わからない』という気持ちは優しさ|『私』は70億分の1しか見えていない

『私』は70億分の1しか見えていない

この世界では、たいていのことが目に見えないところで始まって終わります。

つまり、『私』に見えていることは、この世界で起こっていることのほんの一部というわけです。

これについて、『いやそれは違う』という人はいないだろうと思います。

ですが『私』は、悲しいことや、苦しいことがあったとき、まるでこの世界の悲劇を一身に背負ったような気分になって落ち込みます。

これも、『私』に見えていることは、ほんの一部で、ほとんどのことが目に見えていないことの表れです。

『私』の苦しみしか見えていなくて、他人の苦しみは目に見えていないためにそう感じるのです。

すごく大雑把なたとえ話ですが、『私』は世界の人口の70億人の中のひとりにしか過ぎないのですから、ひとつの考え方として、『私』は70億分の1しか見えていないと考えることが出来ます。

『私』たちは生きている間のことしか知らない

生命についても同じことが言えるのではないか?と考えています。

『私』たちは生きている間のことしか知りません。

生きている間のことにしたって、50歳なら50歳までのことはわかりますが、51歳のことはわかりません。まして70歳や80歳の気持ちや思うことは皆目わかりません。

ただ70歳でも80歳でも生きている人を見る機会があるので、知っているような気になっているだけです。

同じ年齢でも実際は一人ひとり違いますので、やっぱり70億分の1しか『私』は知らないのです。

それなのに『私』は、あたかも生きている間が生命の本番かのように勝手に思い込んで生きています。

もし、生命が永遠に続くのだとしたら、その永遠に続く時間のほんの一部の100年前後の時間を人間として生きているだけなのかもしれないのです。

そして、昨日も書きましたが、生きているということは、思い通りにならない世界です。

『人生は苦である』です。

もし、このことが明らかになったとき、生きている人間が、死ぬ人間に思う『可哀そう』という気持ちは反対なのかもしれない?そんなことを思います。

『まだ生きないといけないのね。可哀そう』と。

『私』には見えていないことがある