思い込みや執着を『手放す』ということ|いつでもフリーな私でいる
モノを手放すのは簡単な行為なのに、思い込みや執着を『手放す』となると途端に難しいことのように思ってしまいます。
同じ『手放す』ですから、モノを手放すように思い込みや執着も簡単に手放せるはずです。
『手放す』について解説します。
今日は『思い込みや執着を『手放す』ということ|いつでもフリーな私でいる』と題して、『手放す』について考えます。
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思い込みや執着を『手放す』ということ|いつでもフリーな私でいる
思い込みや執着を『手放す』
自分の思い込みや執着を自分の中から無くすことを『手放す』と言います。
どうもこの『手放す』という言葉が、『手放す』ことを難しくしている気がしてなりません。
『モノを手放す』という場合の手放すと、言葉は同じですが、心のことになると、一段も二段も難しいことのように祀りあげているように感じるのです。
難しいことを優しい言い方にしようという魂胆みたいなものとセットで『手放す』が使われている。
だから、『手放せばいいんですよ』と言われると返って難しいことのように感じてしまう。
そんな気がします。
モノを『手放す』のは、実に簡単で手を放しさえすれば、モノは簡単に手放すことが出来ます。
なのに、心にある目に見えない思い込みや執着というものは、手放そうと思ってもなかなか手放せない・・。
と思っているから手放せないのです。
それこそが思い込みであり、執着なのです。
モノを手放すのと同じように、思い込みや執着も手放せばいいはずです。
心と身体と『私』は切っても切れない関係
私たちは、身一つで生きているわけではありません。
心と身体がセットで『私』という意識のようなものを創っているのではないかと思います。
心だけでも『私』とは言えないし、身体だけでも『私』とは言えない。
また『私』だけでも『私』とは言えません。
心と身体と『私』は、切っても切れない関係なのではないでしょうか。
そして、その心のようなものにある思い込みや執着もまた『私』を形成するひとつの要素ではないかと思います。
その思い込みや執着というのは、『私』を形成する要素ですが、何を思い込むか?何に執着するか?は決まっているものでもなければ、決まって生まれてくるわけでもないと思うのです。
産まれたときには、思い込みがゼロという状態の思い込みがあって、それが生きていくうちに色々な経験体験をして、思い込みを積み上げていきます。またその中で執着するものも生まれます。
ですから、『手放す』と言っても思い込みが何もないという状態には、そもそもなれないのではないかと思います。
いつでもフリーな私でいる
思い込みや執着に縛られない人というのは、軽やかな印象があります。
それだけ、思い込みや執着というものは、私たちの重荷になっているのです。
『こうあるべき』という思い込みや、手放したくないという執着がすごく重い(思い)荷物なのです。
それらを手放すことが出来たら実に軽やかに生きることが出来ます。
ただ、先ほども書いたように思い込みや執着がゼロというのは、そもそもなれないのではないかと思っています。
なぜか?というと、それも『私』だからです。
ですが、何を思い込むか?何に執着するか?は、これからも自由なのです。
その自由自在な姿が軽やかなのです。
手放すというのは、思い込みや執着を無くすことではなくて、自由に何でも思い込んでいいし、何にでも執着していいという『私』の状態のことです。
そして、それらが変化することにも自由自在なのです。
つまり、フリーな私です。
手放すというのはフリーな私になることなのです。
そして、今日一番お伝えしたいことは、手放すということは難しく考えないということです。
『今、手に持っているゴミを捨ててください』と言われたら、誰でもポイッと捨てることが出来ますよね。
あかちゃんでもない限り『どうやって捨てるんですか?』と思う人はいないと思います。
思い込みや執着も『手放してください』と言われたら、ポイッと手放せばいいのです。
『そんなに簡単に出来ません』と思っているから、手放せないのです。
ゴミなら簡単に捨てられます。
それは、ゴミだからということもありますが、もしまた必要ならまた拾うことも可能だとわかっているからではないですか?
今大切にしている思い込みや執着を手放してみて、必要ならまた思い込めばいいし、執着してもいいのです。
大事なことは、今の思い込みや執着を手放すことではありません。いつでもどこでも自由に思い込んだり執着することができるフリーな『私』でいることです。
いつでもフリーな『私』でいることなのです。
思い込みや執着を『手放す』ということ|いつでもフリーな私でいるのまとめ
今日は『思い込みや執着を『手放す』ということ|いつでもフリーな私でいる』と題して、『手放す』について考えました。
思い込みや執着を『手放す』
モノを『手放す』のは、実に簡単で手を放しさえすれば、モノは簡単に手放すことが出来ます。
なのに、心にある目に見えない思い込みや執着というものは、手放そうと思ってもなかなか手放せない・・。
と思っているから手放せないのです。
それこそが思い込みであり、執着なのです。
心と身体と『私』は切っても切れない関係
心と身体がセットで『私』という意識のようなものを創っているのではないかと思います。
心だけでも『私』とは言えないし、身体だけでも『私』とは言えない。
また『私』だけでも『私』とは言えません。
心と身体と『私』は、切っても切れない関係なのではないでしょうか。
いつでもフリーな私でいる
大事なことは、今の思い込みや執着を手放すことではありません。いつでもどこでも自由に思い込んだり執着することができるフリーな『私』でいることです。
いつでもフリーな『私』でいることなのです。
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