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学んだことは社会で活かしてこそ意味がある

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今日は、西郷南洲翁遺訓を輪読した感想を書きます。

究めた先には社会があると言う話です。

今日『学んだことは社会で活かしてこそ意味がある』とか題してる、学んだことを社会で活かすについて考えます

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

学んだことは社会で活かしてこそ意味がある

西郷南洲翁遺訓

今日は二人だけの輪読会でした。

課題図書は『西郷南洲翁遺訓(さいごうなんしゅうおういくん)』です。

今日輪読した中でも二十三章の『学問は広く学ぶ』というところを読んだ感想を書いていきます。

学問を志す者は、その学問の分野を最初から狭くしぼらずに広く学び、理想を大きくしなければならない。

しかし、ただ知識ばかりに片寄ってしまうと、身を修めることがおろそかになってゆくから、常に自分に打ち克って自分自身を律して修養することが大事である。

広く学び、しかも自分自身を律するこの二つの両立に努めよ。

【一言解説】

学問は高度になればなるほど、狭いジャンルになりがちです。

脳科学の権威、量子力学の権威、フランス文学の権威、何でもその分野の最先端を究めていくときに、研究はさらに微細な分野へと進んでいくものです。

そうなると、その研究の全体像、その学問が社会にとってどういう意味を持つものか、見失われかねません。

『西郷南洲翁遺訓』二十三章より一部抜粋

この中で大切な事だなと感じたのは、その学問が社会にとってどういう意味を持つものか見失われかねませんと言うところです。

と言うのは、人は皆幸せになるために生きています。

つまり、どんな学びも、どんな教えも、幸せになるためにあります。

そのために人は、仕事を究めたり、学ぶことを究めたりします。

究めるとその究めた先に社会があると言うことです。

その社会に自分がやっていることがどう役立っているのか?というところ見失うと独りよがりになってしまいます。

今日一緒に輪読会をした彼は、家具職人なんですけども、家具を造るというのは一種の芸術のようなものがあると思います。

こだわりの製法とか、こだわりの材料とか、美しさとか、そういったこだわりがあるだとうと思います。

しかし、それを使うのはユーザーです。

自分がたとえこだわりの製法で作ったとしても物はいずれ壊れます。

その時にユーザーがどうやって修理をするのか?あるいは、捨ててしまうのか?

家具は、自分の手を離れた後も色々なことが起こるわけですね。

そこまで考えたときに、完成のゴールが変わってくるような気がします。

修理しやすいように工夫するとか、廃棄しやすい材料にするとか。

そういうことをセットで考えることが自分がやっていることが社会とつながっているという目線ではないかと思います。

聞くを究めて社会で役立てる

僕は『聞く』を究めてきました。

今も究めようと努めています。

聞くを究めると、それまでわからなかったことがわかるようになってきます。

『わかるようになる』と言うと少し誤解があるかもしれません。

わかるようになると言うよりも『感じられるようになる』と言う方がふさわしい気がします。

聞くを究めるということは、『深く聞ける』とか、『相手の気持ちがわかる』というよりも感じる力が強くなるということだと思っています。

具体的にわかるのではなくて、感覚としてボンと相手の気持ちが入ってくる感覚です。

人の心というのは言葉を当てはめられるほど単純ではないですよね。

人の心はカオスです。

楽しいといってもひと言で『楽しい』という言葉だけで表現出来るものではありません。

でも、あえて言葉を当てはめるなら『楽しい』しかないから楽しいと言っているみたいなところがあるでしょう。

聞くを究めると、そのひと言では表せないカオスな楽しいを感じることが出来るということなのです。

その結果どうなるか?というと。

自分の心が単純ではなく、やはりカオスだと感じることが出来るようになります。

他人の話しを聞くのと同様に自分の心でさえも自分の意識にあがってくるときには、あえて言葉を当てはめていたはずです。

ですから、自分のことなのに自分に騙されてしまうということがあります。

本当の思いよりも、あえて当てはめられた言葉の方が具体的でわかりやすいですから、そちらが本当そうな気がしてしまうのです。

他人の複雑な気持ちが感覚的にわかるようになるのと同じように自分の心の複雑な思いをつかめるようになります。

前置きが長くなりましたが、そうやって究めた聞く力を社会でどう役立てるかが問題なわけです。

『聞く』の場合、『言語を聞く』、『非言語を聞く』、『未言語を聞く』。大きく分けて三段階あると考えています。

言語を聞くとは、言葉を聞くです。通常の会話のように音になっている言葉を聞くです。

非言語を聞くとは、心の声を聞くです。心の中で思っていることを聞くです。音にはなっていませんが、本人の中では言葉になっているものを聞くです。

未言語を聞くは、未だ心の中でも言葉になっていない思いのことです。

この部分がカオスです。

聞くを究めようとする者は、相手が思う前に思うことを感じられるようになります。

しかし、相手が思う前のことを相手に突きつけてもきっと相手は驚くでしょう。

受け入れられないこともあるでしょう。

人によっては突きつけられることで本当の自分の思いに気づくということもあります。

つまり、人によって今必要なことが違います。

聞くことを究めた者は、未言語までを聞けたとして、『どの部分』で相手とコミュニケーションを取るかという部分が問われています。

つまり『どの部分』がというところが社会の接点になります。

厳密には個人々違います。

ですが聞くを通して社会とつながるというのはそういうことなのです。

究めるだけでは、独りよがりな技になってしまいます。身を修めることは出来ません。

究めた力を社会で活かすためには、力をどう使うかという部分が大事になってくるということなのです。

学んだことは社会で活かしてこそ意味があるのまとめ

今日『学んだことは社会で活かしてこそ意味がある』とか題してる、学んだことを社会で活かすについて考えました。

西郷南洲翁遺訓 
どんな学びも、どんな教えも、幸せになるためにあります。
そのために人は、仕事を究めたり、学ぶことを究めたりします。
究めるとその究めた先に社会があると言うことです。

聞くを究めて社会で役立てる 
聞くを究めようとする者は、相手が思う前に思うことを感じられるようになります。
しかし、相手が思う前のことを相手に突きつけてもきっと相手は驚くでしょう。
受け入れられないこともあるでしょう。
人によっては突きつけられることで本当の自分の思いに気づくということもあります。
つまり、人によって今必要なことが違います。
聞くことを究めた者は、未言語までを聞けたとして、『どの部分』で相手とコミュニケーションを取るかという部分が問われています。

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