ありのままの自分が煩悩と一体になったときに『私』という意識が生まれる
とても長いタイトルでしかも意味不明。
しかし、とても気に入っています。
私の正体に迫っています。
とても抽象的な文章ですがぜひ御覧ください。
今日は『ありのままの自分が煩悩と一体になったときに『私』という意識が生まれる』と題して、世界と自分の区別がなくなった体験について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
今日も読んでいただき
感謝しています。
そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。
くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。
くろちゃんは、
世界一幸運です。
毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。
ありのままの自分が煩悩と一体になったときに『私』という意識が生まれる
欲しがるのをやめる
瞑想をしていたときに得た感覚の話しをします。
欲しがるのをやめます。
明日それが手に入るとしても手に入れる前に欲しがることをやめます。
手に入れてしまうと、それよりさらに良いものが欲しくなってしまうからです。
だから、手に入れる前に欲しがることをやめた方がいいのです。
欲しいという気持ちは、執着心のひとつの表れです。
執着心を手放すということは、自分の周りについたホコリのようなものを払っていく行為です。
ホコリを払い、それ以上にホコリがつかないように自分を丁寧に観察していると、自分という意識がどんどん小さくなって、だんだんと自分が無くなっていくような感じがします。
その状態は、静かでじっとしていて、呼吸をするのも丁寧で、無駄に動かない。
なんだかその状態でいると、懐かしい感じがして涙が出そうになります。
小さくなっているのかと思ったら、そうじゃなくて小さな球の中に自分が徐々に溶け込んでいくような感じです。
小さな球なのかと思ったら、そうじゃなくて、それがこの世界全体なのだと気がつきました。
自分が世界に溶け込んでいくのです。
世界はもともとその小さな球だったんです。でもそれしかないので実は小さいも大きいもなくて、それ以外もない。
それしかないのです。
気がついたら、もう自分が世界なのか、世界が自分なのか区別がつきません。
でも気を緩めると自分が表れて、自分と世界が分かれてしまいそうです。
気が緩むと振動が起きて、世界が弾けてしまいそうです。
弾けると、次々と物質が生まれて、今のこの世界を形づくってしまうから、振動を起こさないように慎重にしていないといけないなと思います。
雑に呼吸をしただけでも振動が起きそうです。
ゆっくり丁寧に呼吸をして無駄な動きをしない。
振動が起こると弾けてしまうからです。
慎重に慎重に弾けないように。
あの涙が出そうな感覚を求めて世界のままであり続けようと思います。
でも、ふっ!と気づくんです。
確かに世界でいることは涙が出そうなくらい安心で平和で、とても幸せなことだけども、そのためには静かで慎重で不用意に動くことさえ出来ない。
幸せだけども窮屈だなと。
やめてもいいんじゃないかな?
やめて、弾けて自分と世界が表れて。
そこには苦しみや悲しみもあるけれど。
喜びや幸せもあって。
そんな中で生きていくのもいいんじゃないかな。
欲しくて、でも手に入らなくて、苦しいこともあるけれど。
それが世界のひとつの顔だから。
本当のことがわかっていたらいいんじゃないかな。
瞑想をしていて、そんな感覚を味わいました。
世界はもうひとつの私の顔
瞑想をしているときに味わった感覚を言葉にしてみました。
あえて言葉にするとこんな感じですが、言葉にしてみて、より感覚を理解できたような気がします。
言葉にしなければいつまでも掴みどころのない感覚で、味わったこと自体を忘れてしまったと思います。
たとえば、『なんだかその状態でいると、懐かしい感じがして涙が出そうになります。小さくなっているのかと思ったら、そうじゃなくて小さな球の中に自分が徐々に溶け込んでいくような感じです。』というところを言葉にしてみて、懐かしい感じがして涙が出そうな感覚になったのは生まれる前にお腹の中にいた感覚と近かったからかな?と思いました。
『欲しがるのをやめる』というのは、この世界でやらなければいけないことは、手に入れることではなくて手放すことなのだということです。
手に入れたら幸せになれると思い込んで、私たちは頑張っています。
地位や名誉を求めたり、お金や良縁を求めています。
しかし、それらを欲しがる執着心を手放すことが唯一の幸せになる方法ではないかということです。
執着心を手放したら、望み以上のものが手に入るのです。
それは『本当の自分』かもしれないですね。
『ありのままの自分』と言った方がわかりやすいかもしれません。
普段の私たちは『ありのままの自分』にいわゆる煩悩をまとっています。
いわゆるホコリです。
そして、これは言い過ぎではないと思いますが、すべての思いは煩悩から生まれています。
たとえ、どんなに正しいと思えることでも、その源は煩悩です。
ありのままの自分が煩悩と一体になったときに『私』という意識が生まれるのです。
つまり私が思うことはすべて煩悩なのです。
迷わずに手放していいのですが、手放せなくてもいいのです。
それが最後に書いた『欲しくて、でも手に入らなくて、苦しいこともあるけれど。それが世界のひとつの顔だから。』という表現です。
世界はもうひとつの私の顔です。
煩悩も私の顔なのです。
出来れば、そのことを自覚しなが過ごせたら言うことないのですが。
わかっているときが手放せているときと言えるのかもしれません。
普段はそんなことを忘れて過ごしているので、苦しんだり、怒ったり、悩んだりしてしまいますけどね。
ありのままの自分が煩悩と一体になったときに『私』という意識が生まれるのまとめ
今日は『ありのままの自分が煩悩と一体になったときに『私』という意識が生まれる』と題して、世界と自分の区別がなくなった体験について考えました。
欲しがるのをやめる
欲しがるのをやめます。
明日それが手に入るとしても手に入れる前に欲しがることをやめます。
手に入れてしまうと、それよりさらに良いものが欲しくなってしまうからです。
だから、手に入れる前に欲しがることをやめた方がいいのです。
世界はもうひとつの私の顔
世界はもうひとつの私の顔です。
煩悩も私の顔なのです。
今日も読んでいただきありがとうございます。
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