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いつ死んでもいいように今を生きる

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人は死ぬために生きていると言ってもいいと思います。

明日どうなるかもわかっていませんが、いつか死ぬことだけはわかっているからです。

だとすると、『いつ死んでもいいように今を生きる』という言葉がとても身近にある言葉のように感じます。

今日は『いつ死んでもいいように今を生きる』と題して、そう思った心境について考えます。

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

いつ死んでもいいように今を生きる

それはいつかの遠い日のこと。

人生で大切なものは生命だということを昨日のブログで書きました。

若い頃は死というのはあまりに自分から遠い出来事で実感が伴わず、生命を大切にするというと何を大げさなと思っていたような気がします。

精神分析の創始者フロイトは、『無意識のうちに誰しも自分自身の死があることを信じていない』と言っています。

人間はいつか死ぬと誰もがわかっていますが、頭ではわかっていても本当に自分が死ぬということを誰も信じていないというのです。

年齢を重ねるといくつかの人の死を経験します。

中学を卒業してすぐ、仲が良かったひとつ下の後輩がバイク事故で亡くなりました。

そのときは信じられないとは思いましたが、それを自分の死と関連付けることはありませんでした。

2000年頃だったと思いますが、一緒に働いていた母子家庭の女性が癌で一年の闘病生活の末に亡くなりました。

家族で一緒にディズニーランドに行ったぐらい家族ぐるみの付き合いだったので、彼女が亡くなったことはもちろん悲しかったのですが、遺された娘さんのことを思うと可愛そうで仕方がなかったです。

2014年には自分自身が心臓病を患って、かなり深刻だということをお医者さまから散々注意をされていましたが、かなり無茶を続けていましたのでまったく信じていなかったと思います。

2015年にも心臓に異常を感じて自ら病院に行き即入院になりました。

同じ年に弟を事故で亡くしましたが、それもやはり弟の死であって自分の死ではありませんでした。

2017年には当時付き合っていたパートナーが癌で死にました。

その時初めて自分もいつか死ぬんだなとほんの少しだけ実感をしたような気がします。

そして2018年に沖縄で脳出血を起こしました。

その時にお見舞いに来てくれた友人が『こいつはどこまでついてないんだと思った』と言われましたが、そんな風に他人には映るんだと笑って聞いていました。

今振り返ると自分の生命をかなり軽く考えていたんだと思います。

何を伝えたいかと言うと、これだけ身近に死があってもまだ自分が死ぬということを遠い日の出来事だと思っているということです。

いつか死ぬことはわかっています。

しかし、それはいつかの遠い日のことなのです。

四馬の比喩

一頭目の馬は、鞭影を見て驚く馬です。

騎手が鞭をひゅっとふっただけで走り出す馬です。

この馬は駿馬です。

 

二頭目の馬は、鞭毛に触れて驚く馬です。

これは、騎手が鞭をさらっと馬の毛にふれただけで、驚いてヒヒーンと走り出す馬です。この馬も駿馬です。

 

三頭目の馬は、鞭肉にあたって驚く馬です。

これは、普通に鞭をあてられて走り出す馬で、普通の馬です。

 

四頭目は、鞭骨にこたえて驚く馬です。

これは鞭が肉にあたっても走り出さず、何も感じません。そのため、騎手は繰り返し打ちまくって、とうとう肉が破れて骨が見えたとき、骨にこたえてようやく驚く馬です。大変鈍感な馬です。

これはお釈迦様が無常、つまり死に対する感度を喩えられたものです。

桜が散るのを見てどんなものにも終わりがあるということを感じる人もいれば、世界のどこかで自爆テロがあったと聞いて人間いつその時が来るかわからないと気づく人もいます。

身近な人が亡くなってやっと自分もいつか死ぬんだと恐ろしくなる人もいれば、自ら病に侵されるまで気づかない人もいます。

そう考えるとなんと自分の鈍感なことかと思い知ります。

身近な人が死に自らが病気になってもまだ自分の死を信じていなかったからです。

いつ死んでもいいように今を生きる

2018年の脳出血の後、岡山に戻り日々を過ごすなかで少しづつ心境が変わっていったような気がします。

それまで飲んだり飲まなかったりした心臓の薬を飲むようになりました。

薬については賛否両論あることは承知しています。

以前の僕は薬が身体に悪いという情報を利用していたような気がします。

本当は毎日薬を飲むのが面倒くさかっただけなのです。

薬が身体に良くないということは本当かもしれません。

しかし、それを自分自身が確かめる術はありません。

いくら調べてもそれは他人からの情報でしかないからです。

それを信じることが自分にとって都合が良かったのです。

ですが、2018年暮れに心臓で3回目の入院をしました。

薬を飲まないことで将来薬の副作用がなかったとしても今やりたいことが出来ないのであれば意味がないと思いました。

今を快適にやりたいことを出来る状態を維持するために薬を飲もうと決めました。

それ以外の方法もあるのかもしれませんが、自分に出来ることの中では薬を飲むことだと思ったのです。

これからは、今を大切にすることを基準に生きようと思いました。

というのも人生半分は生きたとしたら、将来のために今という時間を使うのはやめようと思ったのです。

今が将来だと。

若いときは将来のためにお金や知識や経験を蓄えないといけなかったのかもしれませんが、もう蓄えなくていいと。

今から蓄えても使う時間は限られているから使いましょうと。

そう思ってからの方が不思議とお金も知識も蓄えられた気がします。

僕の場合、将来のために生きていたときよりも今を大切に生きようと思ってからの方が人生が好転したように思います。

それは生命の儚さをほんの少しですが実感出来たからかな?と思います。

裏を返すと、いつ死んでもいいように今を生きようとしているということかもしれません。

いつ死んでもいいように今を生きるのまとめ

今日は『いつ死んでもいいように今を生きる』と題して、そう思った心境について考えました。

それはいつかの遠い日のこと。 
身近に死があってもまだ自分が死ぬということを遠い日の出来事だと思っているということです。
いつか死ぬことはわかっています。
しかし、それはいつかの遠い日のことなのです。

四馬の比喩 
身近な人が死に自らが病気になってもまだ自分の死を信じていない。

いつ死んでもいいように今を生きる 
将来のために生きていたときよりも今を大切に生きようと思ってからの方が人生が好転したように思います。
それは生命の儚さをほんの少しですが実感出来たからかな?と思います。
裏を返すと、いつ死んでもいいように今を生きようとしているということかもしれません。

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