うぬぼれ心に対処する|仏教の七慢
うぬぼれ心を見透かされたら恥ずかしい気持ちになりますよね。
しかし、うぬぼれ心は誰にでもあるものです。
当然自分にもおおいにあります。
そのおおいにあるうぬぼれ心をどう取り扱うかうか?
その対処法についてお話します。
今日は『うぬぼれ心に対処する|仏教の七慢』と題して、うぬぼれ心に対処する方法について考えます。
世界一、幸せなみなさんへ
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うぬぼれ心に対処する|仏教の七慢
仏教の七慢
慢心、うぬぼれ心というのがあります。
仏教では七慢(しちまん)といって、7つのうぬぼれ心を教えています。
慢(まん)
過慢(かまん)
慢過慢(まんかまん)
我慢(がまん)
増上慢(ぞうじょうまん)
卑下慢(ひげまん)
邪慢(じゃまん)
特に人間の心を深く見つめているなと思わされるのが卑下慢です。
『慢』というのはうぬぼれ心で、自分よりも評価が低い人を見下す心のことですが、卑下慢というのは、自分のことを卑下しながらうぬぼれる心のことです。
潔く自分が悪うございましたと自分の非を認めている自分のことを『どうだ私は潔いだろう』と、それに引き換えあなたは自分の非を認められない小さい人間だと相手を見下しうぬぼれる心です。
とにかくあらゆる場面での人間のうぬぼれ心を戒めているのが仏教の七慢です。
そこで思ったことは、どんな場面で、どんな態度でいたとしても慢ではないかということです。
相手を見下しても慢だし、自分を卑下しても慢です。
人間にはうぬぼれ心がない時が一時もないのです。
そうだなと。どんな時でも慢心があると心得て、謙虚に生きようとしている心さえ慢(卑下慢)なのです。
驚きを通り越して笑ってしまいます。
では、どうすればいいのか?
何もしないでいいのです。
人間とはそういうものだと受け入れるだけでいいのです。
諦観(たいかん)というのは、諦めて観ると書きますが、物事を明らかに観るというのが本来の意味です。
仏教の教えを理解して実践をしたら素晴らしい人間になる。悟って特別な人間になる。幸せになるというのが仏教の教えではなくて、人間というものの性質や心理を理解して諦観することが仏教の教えなのだと思います。
そして慢のある自分も相手も劣っていたり、何か欠如しているわけではなくて、それで完璧な存在なのだということなのです。
うぬぼれ心の対処法
自分や相手にうぬぼれ心を感じたとき、どうすればいいでしょうか?
何もしないでいいと。人間とはそういうものだと受け入れるだけでいいと先ほど書きました。
その心はと言いますと、うぬぼれ心があるなと気づいただけでふるまいが変わるからです。
自分にうぬぼれ心があると気づいたときは自然に謙虚になるでしょう。
謙虚になった自分に卑下慢を感じたら、卑下慢を戒める心が起こります。
それで十分だと思います。
相手にうぬぼれ心を感じたときは、ぜひ七慢の話を思い出してください。
人間誰でも慢の心があるのだと。
そう思うだけで許す心が起こります。
肝心なのは、その時に卑下慢にならないことです。
それでは何も解決にならないとお思いになるかもしれませんが、解決しようとする心こそ慢ではないでしょうか?
肝心なことは自分の心の平安ですよね。
目の前に起こっている現実をどう考えれば自分の心が平安でいられるか?が肝心です。
そのための対処法であって、相手のハナをへし折ったり、降参させたり、改心させることが目的ではありませんよね。
無明を認めることが光明
「何者にもならない」
生きている、
ただそれだけですでに
「何者かである」
これは僕のメルマガ『日刊ともいきマガジン』の冒頭の部分のメッセージです。
このメッセージが出来たときは七慢のことは知りませんでした。
何かの名言を引用したわけでもありません。
よく降りてきたとか言いますが、そのような感じで出来たメッセージだったのですが・・・・。(これは慢だな(笑))
自分が書いたこのメッセージの意味がこのところようやく理解出来ました。
その時々に応じて理解はしていたつもりですが、深みが増し奥行きが広がった気がします。
人間は不完全で完璧です。
満点の人はいません。
何かしらの無明(見えていない部分、盲点)を抱えています。
それをすべて明らかにすることが光明ではなくて、無明を認めることが光明なのではないでしょうか?
うぬぼれ心に対処する|仏教の七慢のまとめ
今日は『うぬぼれ心に対処する|仏教の七慢』と題して、うぬぼれ心に対処する方法について考えました。
仏教の七慢
相手を見下しても慢だし、自分を卑下しても慢です。
人間にはうぬぼれ心がない時が一時もないのです。
そうだなと。どんな時でも慢心があると心得て、謙虚に生きようとしている心さえ慢(卑下慢)なのです。
うぬぼれ心の対処法
解決しようとする心こそ慢ではないでしょうか?
肝心なことは自分の心の平安ですよね。
目の前に起こっている現実をどう考えれば自分の心が平安でいられるか?が肝心です。
そのための対処法であって、相手のハナをへし折ったり、降参させたり、改心させることが目的ではありませんよね。
無明を認めることが光明
人間は不完全で完璧です。
満点の人はいません。
何かしらの無明(見えていない部分、盲点)を抱えています。
それをすべて明らかにすることが光明ではなくて、無明を認めることが光明なのではないでしょうか?
今日も読んでいただきありがとうございます。
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